三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

村上知行 『三国志物語』(昭和14年)

 村上知行著、『三国志物語』は昭和14年に中央公論社から全3巻で出版された、「三国志演義」の翻訳本です。ただ全文完訳ではなく、作者によれば「三国志演義」の文章はあまりに冗長であるため、不用の部分、興味の乏しい部分を省略して訳したものだということです。
 吉川英治が自分流の解釈を加えて翻案をしたこととは反対に、村上氏はよりシンプルで読みやすい形へと翻案したと言えるでしょう。一見して真逆の翻案のようですが、桑原武夫*1は、いずれも当時には難解になりつつあった「三国志」の現代化・常識化しようとした作品であると評しています。方法は異なりますが、どちらもより読みやすい「三国志演義」を目指していた、ということです。
 さてこの『三国志物語』が重要なのは、ひとつに『吉川三国志』とほぼ同時期に書かれたものであるということ*2、ふたつに「毛宗崗本を底本にしている」点であります。特に自分にとっては後者、毛本の訳本であることがとても重要なのです。






と言いますのも。
 ご存知『吉川三国志』はその種本に『通俗三国志』を用いたと言われています。しかし『吉川三国志』を読みますと、所々で『通俗三国志』では見られない、例えば毛宗崗本に依拠するような演出、表現が出てきます。吉川先生は『通俗三国志』以外の参考資料も少なからず使っていたようです。
 最初にその資料として自分が考えたのは、日本初の毛宗崗本の訳本にして、かつて吉川先生も読まれたという久保天随『新訳演義三国志』(大正元年)だったのですが、どうやら違ったらしい。そこで次の候補に考えたのがこの村上『三国志物語』だった訳でして、なのでこれが毛本の翻訳だと判明したことは自分にとって重要だったんです。
 果たして本文を見比べてみたところ、やはりこの本が参考に使われていたらしき様子が見られました。それは、かつてブログでも取り上げた、関羽が華雄を斬る場面にありました。


 『三国演義』は関羽vs華雄の様子を、あえて間接的に描くという特徴的な演出をしています。そして『吉川三国志』でもこの演出は見られるのですが、ところがその種本であるはずの『通俗三国志』が間接描写を用いていない。となると吉川英治はこの演出を『通俗三国志』以外から知ったということになります。
 そこで注目したいのが、華雄戦に前後している169ページと378ページです。369ページは、袁紹孫堅を警戒して兵糧を止めてしまう場面。378ページは、袁紹配下の兪渉が華雄に敗れる場面です。しかし本来、孫堅の兵糧を止めるのは袁術であり、兪渉も袁術の部下です。『三国演義』も『通俗三国志』もやはり袁術であります。
 そこで『三国志物語』を見るとこれもまた袁紹に間違えていました。『吉川三国志』が『三国志物語』を参照していたのは間違いないと思います。『吉川』が間接描写の演出を『三国志物語』から拝借した際に、『三国志物語』の些細なミスをも持ちこんでしまった訳です。先に述べました通り、『三国志物語』は『吉川三国志』に僅かながら先行して世に出てます。


 全集の付録の月報などを読みますと、吉川英治はかなり綿密に取材してから執筆する人だったようでして、『三国志』も依頼から執筆開始まで1年の時間をかけたと、当時住み込みだった福永為永氏が証言しています。関羽vs華雄はその現れと言えるでしょう。
 また『吉川三国志』との直接の関わりの他、明治〜戦時における毛宗崗本の受容を考える上でも、『三国志物語』は重要なのではと思ってますので、それら含め今後の課題にしたいと思います。

*1:「『三国志』のために」(『桑原武夫全集3』、1968)

*2:三国志物語』の出版と『吉川三国志』の連載開始はどちらも昭和14年。しかしより細かく見ますと『三国志物語』の方が数か月分、先行していたようです