三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

吉川英治と張郃

苦徹成珠の吉川さんも"三国志"だけは、リラックスに書かれたようである。楽しんで書いておられる風でもあった。馬上からバラリンズンと斬殺した人物を、後の場面で活躍させて、飛んだ失敗したよと、吉川さんが苦笑したようなお愛嬌もあった。*1



 やはり先生もご存じだったようです(笑
 吉川張郃が三度も死ぬことはもうネタとして鉄板ですけど、実は張郃だけでなく例えば楽就も二度討たれてたり。


 周知の通り、先生は基本的に『通俗三国志』を傍らに執筆されており、その文章を吉川流に翻訳してから原稿用紙に文字を綴っていたと思われます。
 で、『通俗』を読みつつ一騎討ちの場面などを書いていると、つい筆の勢い余って『通俗』にはない討ち死をさせてしまうことが時々あります。まあ噛ませ役を演じるような人物は大抵それっきりなので問題ないですけど、ところが中には再登場する人物もいる訳で、でも噛ませ犬のような人物などさすがに逐一憶えていないでしょうから、疑問なく原稿用紙にもそのまま登場させてしまった、という訳です。
 張郃がまさにそうで、1度目は汝南の戦いで、2度目は長坂の戦いで、3度目は祁山の戦いでした。
 『通俗』では1・2回目は趙雲と一騎討ちの末に敗走しているのですが、確かに読めばここで張郃を討ち死させてくなる気持ちも分かるのです。『演義』では「曹操に降った猛将がその次の戦で討たれる」というパターンがありまして、実際1度目の汝南の戦いでは張郃の相方、高覧が討たれているんですね。じゃあついでに張郃も斬っちゃえというのも頷けます。2度目は、趙雲が青紅の剣を手にし、劉禅を保護し、さあまさに趙雲の無双が始まらんとしていた直後ですから、そんな折に出てきた張郃は青紅の剣の試し斬りには丁度よかった訳です。


 当時の吉川先生は『三国志』含め3本の新聞連載をメインに雑誌連載や短編なども抱えており、毎日が修羅場だったそうです。そんな環境では張郃の一人や二人にまで気を配るのはやっぱり難しかったのでしょう。吉川張郃は当時の多忙さを象徴するキャラクターだと言えます。
 しかしその一方では冒頭の引用にあるような『三国志』特有の、間抜けな珍事を笑うゆとりと大らかさも張郃は持っていたのでした。

*1:「"三国志"のころ」菅原宏一 『吉川英治全集』27巻附月報