怪しげな孔明の三男 【諸葛懐】
昨日に引き続き、今日は諸葛亮の三男だという諸葛懐についてです。
wikipedia -「諸葛懐」
こちらも張澍『諸葛忠武侯文集』故事諸葛篇が引く『諸葛氏譜』で諸葛懐のエピソードが触れられています。
原文:晋泰始五年己丑、王覧為太傅、詔錄故漢名臣子孫蕭・曹・訒・呉等後、皆赴闕受秩。孔明之後獨不至。訪知其第三子懐、公車促至、欲爵之。懐辞曰、「臣家成都、有桑八百株、博田十五頃、衣食自有餘饒。材同樗檪、無補於國、請得歸老牖下、實隆賜也。」晋主悦而從之。
意訳:泰始五年、王覧が太傅になると、古い漢の名臣達の子孫、蕭氏、曹氏、訒氏、呉氏らを召して秩録を与えた。しかし諸葛亮の後裔だけは来なかった。探させたところ諸葛亮の三男の諸葛懐があること知って、これに使者を遣って爵位を与えようとした。諸葛懐は辞退して「私の家は成都にあり、財産も十分にあります。また私は国家を補する人間ではないため、どうかこのまま一生を過ごさせていただけますよう」と述べたので、司馬炎はこれを悦びその通りにした。
いろいろ気になるところありますが、まず最初に挙げられてる四氏はきっと蕭何、曹参、訒禹、呉漢でしょうね。諸葛亮はそれに並ぶ漢の功臣だとされている訳です。
それと冒頭「晋泰始五年己丑、王覧為太傅」ですけど、『晋書』を見ますに泰始五年の太傅は鄭沖であり、そもそも王覧が――これは王祥の弟である王覧のことだと思いますが、太傅になったことはありません。なぜ王覧がここで出てくる必要があったのですかね?
ただ泰始五年という時期についてですけど、たぶん『晋書』武帝紀泰始五年に
詔して蜀相諸葛亮の孫の京を隨才署吏たらしむ。
ってあるのに関係しているかと思います。
つまり諸葛氏サイドからしたら、宿敵に首垂れる様なこの人事は面白くないことでしょう。
そこでこれに対するカウンターとして、諸葛氏は司馬晋の禄を受けなかった、漢の名臣の子孫たちがみな司馬晋に服従しても諸葛氏だけは己を保ったのだ、という説話を作ったのでしょう。
しかもこの時すでに、諸葛誕の子である諸葛靚が父の仇である西晋に出仕しないという姿勢を示していました。諸葛靚が西晋を拒み、諸葛京がそれに出仕したとあらば、"漢の忠臣"の立つ瀬はありません。
諸葛懐とは、そんな諸葛亮一族の面目を保つために作られた架空の息子なのでしょう。