三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

『四庫提要』史部正史類 「三国志」

【原文】
 晉陳壽撰。宋裴松之注。壽事蹟具晉書本傳。松之事蹟。具宋書本傳。
 凡魏志三十卷。蜀志十五卷。吳志二十卷。
 其書以魏爲正統。至習鑿齒作漢晉春秋。始立異議。自朱子以來。無不是鑿齒而非壽。然以理而論。壽之謬萬萬無辭。以勢而論。則鑿齒帝漢順而易。壽欲帝漢逆而難。蓋鑿齒時晉已南渡。其事有類乎蜀。爲偏安者爭正統。此孚於當代之論者也。壽則身爲晉武之臣。而晉武承魏之統。僞魏是僞晉矣。其能行於當代哉。
 此猶宋太祖篡立近於魏。而北漢南唐蹟近於蜀。故北宋諸儒。皆有所避。而不僞魏。高宗以後。偏安江左。近於蜀。而中原魏地全入於金。故南宋諸儒。乃紛紛起而帝蜀。此皆當論其世。未可以一格繩也。
 惟其誤沿史記周秦本紀之例。不託始於魏文。而託始曹操。實不及魏書敍紀之得體。是則誠可已不已耳。

 宋元嘉中。裴松之受詔爲注。所注雜引諸書。亦時下己意。綜其大致。約有六端。一日引諸家之論以辨是非。一曰參諸書之說以核譌異。一曰傳所有之事詳其委曲。一曰傳所無之事補其闕佚。一曰傳所有之人詳其生平。一曰傳所無之人附以同類。其中往往嗜奇愛博。頗傷蕪雜。知袁紹傳中之胡母班。本因爲董卓使紹而見。乃注曰班嘗見太山府君河伯。事在搜神記。語多不載。斯已贅矣。鍾繇傳中。乃引陸氏異林一條。載繇與鬼婦狎昵事。蔣濟傳中。引列異傳一條。載濟子死爲泰山伍伯。迎孫阿爲泰山令事。此類鑿空語怪。凡十餘處。悉與本事無關。而深於史法有礙。殊爲瑕纇。
 又其初意。似亦欲如應劭之注漢書。考究訓詁。引證故實。故於魏志武帝紀沮授字。則注沮音菹。萁平字。則引續漢書郡國志注萁平縣名屬漁陽。甬道字。則引漢書高祖二年與楚戰築甬道。贅旒字。則引公羊傳。先正字。則引文侯之命。釋位字。則引左傳。致屆字。則引詩。綏爰字。率俾字。昬作字。則皆引書。糾虔天刑字。則引國語。至蜀志郤正傳釋誨一篇。句句引古事爲注。至連數簡。又如彭羕傳之革不訓老。華佗傳之旉本似專。秦宓傳之棘革異文。少帝紀之叟更異字。亦輭有所辨證。其他傳文句。則不盡然。
 然如蜀志廖立傳首。忽注其姓曰補救切。魏志涼茂傳中。忽引博物記注一繦字之類。亦輭有之。蓋欲爲之而未竟。又惜所已成。不欲删棄。故或詳或略。或有或無。亦頗爲例不純。
 然網羅繁富。凡六朝舊籍今所不傳者。尚一一見其突略。又多首尾完具。不似酈道元水經注。李善文選注。皆剪裁割裂之文。故考證之家。取材不竭。轉相引據者。反多於陳壽本書焉。



【原文じゃないサムシング】
 撰者は西晋陳寿。注釈は南朝劉宋の裴松之陳寿の事績は『晋書』陳寿伝に、裴松之の事績は『宋書裴松之伝にそれぞれある。
 (『三国志』六十五巻のうち)、「魏志」は三十巻、「蜀志」は十五巻、「呉志」は二十巻である。
 三国志』は魏を以て正統としている。しかし習鑿歯が『漢晋春秋』を作ってこれに異を唱え、そして朱子より以来、習鑿歯が是、陳寿が非とされた。確かに理で論ずれば、陳寿の誤りは全く言い訳がない。しかし習鑿歯の時代と異なって、陳寿が漢を正統としようとしてもそれは困難であった。習鑿歯の時には既に晋朝は南に渡わたっており、*1これは蜀漢と似た情勢だった。偏安する者が正統を論ずるというのは当時に生まれるものなのである。しかし陳寿西晋武帝の臣下であり、武帝は魏より系統を受け継いでた。よって魏が偽りとなれば晋もまた偽りとなる。どうして当時においてそれができるだろうか。
 また、北宋の太祖が建国した情勢も曹魏のそれに近く、逆に北漢*2南唐*3の情勢は蜀漢に近かった。故に北宋の学者はみな魏を偽としなかった。それが高宗のあと、江南に拠るようになるとその状況は蜀漢に似、ために中原を支配する金が曹魏に見立てられ、南宋の学者は蜀漢を正統としたのである。これらは当然それぞれの時代によって論ぜられるもので、未だ定まった見解はなされえていないのである。
 ただ陳寿が『史記』周本紀、秦本紀の例に倣い、曹魏の始まりを曹操より書いたことは誤りであり、魏収の『魏書』が序紀を立てたことには及ばない*4

 劉宋の元嘉中*5裴松之は詔を受けて『三国志』に注を付けた。この注では諸書を引き、亦た時に裴松之自身の見解も付している。その特徴は凡そ以下通りである。一に、諸家の論を引いてそれらの是非を論じている。二に、諸書の説を参考として『三国志』本文の誤りを調べている。三に、本文の記事をより詳細にし、四に、本文にない記事はその欠を補う。五に、伝のある人物はその事績を詳細にし、六に、伝のない人物にはその類する記事に附し補っている。
 ただ往往にして奇を嗜んで博を愛し、すこぶる煩雑である。
 たとえば、袁紹伝では胡母班が太山府君河伯に出会った挿話が『捜神記』にあることが紹介され、鍾繇伝では陸氏『異林』を引いて鍾繇が鬼婦となれ親しんだことを載せ、蔣濟伝では『列異傳』を引いて濟の子が死して泰山伍伯となって孫阿を泰山令としたことを載せる。このようなデタラメな論を載せて怪を語っているものは十あまりあり、史法を妨げて欠点となってる。
 また初めは應劭の『漢書』注のように、訓詁を考察し故実を検証しようとしたようである。武帝紀において「沮授」の字に注して「沮の音は菹である」とし*6、「萁平」の字に『続漢書』郡國志を引いて「萁平とは県名であり漁陽に属する」と注し*7、「甬道」の字に『漢書』高祖二年を引いて「楚と戦い甬道を築く」とあると注し*8、「贅旒」の字には『春秋公羊伝』を引き*9、「先正」の字には「文侯之命」を引き*10、「釋位」の字には『春秋左伝』を引き*11、「致屆」の字には『詩経』を引き*12、「綏爰」や「率俾」や「昬作」の字には『尚書』を引き*13、「糾虔天刑」の字には『國語』を引いている。「蜀志」郤正伝の「釋誨」の一篇には古事を引き*14、彭羕伝の「革」は老と読まない*15。また華佗伝の「旉」が「專」に似ること*16、秦宓傳の「棘革」の異字*17、少帝紀の「叟更」の異字*18など弁証するところも多少はある。*19
 「蜀志」廖立伝のごとき〜何とかかんとかこの辺何言ってるかサッパリ分からないです。
 しかし裴松之六朝時代の旧籍を網羅しており、その為に今では伝わらない史料でもその概略を窺うことができる。また、酈道元『水経注』や李善『文選』注が引用先の文章をバラバラにしてしまっているのとは違って、裴松之はその首尾をしっかり備えて引いている。故に考証学においては裴注より多くの佚文が拾い集められて、むしろ陳寿の本文より多いくらいである。

*1:司馬睿が建てた東晋王朝のことですね

*2:五代十国のひとつ。劉氏の王朝。後漢(五代)が後周によって滅ぼされた際、その旧皇族が独立して建てた王朝である。その辺が劉備と似てますね。それなりに偏覇を保ったものの、なんやかんやの末に北宋の太宗によって滅ぼされた。これにより北宋は天下を統一する。
ちなみに後漢(五代)は劉邦や劉秀も祖先廟に祀っていたっぽいです。

*3:五代十国のひとつ。江東に拠って独立した李氏の王朝であり、いわゆる唐帝国の憲宗(玄宗)の後裔を称していた。この辺が蜀漢と似ているのでしょうか。独立王朝としての体裁を備えていたものの、いろいろあって北宋に臣従する形をとっていた。でも結局は北宋の太祖によって滅ぼされた。

*4:史記』は周本紀において遡って后稷より書き始めており、また始皇帝以前の秦国君主に対して独立させた秦本紀を設けています。これに対して魏収『魏書』では北魏建国者である道武帝以前の拓跋氏の王は、まとめて「序紀」に収めています。ここでは『魏書』の方が紀の体裁として優れており、『三国志』がしたように曹操を本紀の第一に収めてしまったことはすべきではない、と批難している訳です。でも『集解』の盧弼はこれに反論して、曹操は実質的な建国者であり拓跋諸王とは全然違う、としています。

*5:劉宋の文帝の治世を指します

*6:武帝紀の建安九年です。実際には沮鵠に対する注ですね。

*7:建安十年です。

*8:建安十六年です。甬道とは防備が施された軍事用の輸送道路のことです。

*9:建安十八年、曹操を魏公に封ずる詔より。実際には「綴旒」に対する注で、併せて何休の『春秋公羊伝解詁』が引かれています。『公羊伝』が出典みたいですね

*10:同じく詔より。『尚書』周書にある「文侯之命」が出典であると注されています

*11:同じく詔より。『左伝』昭公二十六年の伝が出典のようです

*12:同じく。『毛詩』魯頌の「閟宮」

*13:それぞれ『尚書』、商書の盤庚下、周書の君奭、商書の盤庚上

*14:淮南子』や『呂氏春秋』などいろいろ引かれてますね。これのことでしょうか

*15:彭羕の台詞「老革荒悖、可復道邪」に注して「老革とは老兵を言うのである」と結論してますけど、裴松之の言ってる内容はよくわかりません

*16:華陀の別名である「旉」の文字について、おそらく諸本によって「旉」だったり「專」だったり文字の異同があったんだろうと思いますが、裴松之はそのあざなから推測して「旉」であろうとしています

*17:論語』顔淵に見える棘子成が、『三国志』本文では革子成となっていると裴注が指摘します

*18:高貴郷公紀の甘露三年の詔より、「小同為五更」とあるのを蔡邕の説を引いて「五叟」とすべきであると注しています。

*19:つまりはおそらく、裴注と言えばよく事件の異聞を収集するものであると言われていますが、中には語句の訓詁をしているものもあるのだ、ということの実例が長々と引かれているのだと思います。