典韋の短戟
典韋の「双鉄戟」とは別の隠し武器、原作三国志演義だと短戟って書いてるけど、使用方法的には短刀っぽい。敵兵目がけて数十本投げてるし。立間先生の注釈だと短い槍、日本で言う手裏剣に近いって書かれてるね。ゴツい身体して手裏剣使えるとか悪来さん万能すぎ\(^o^)/
— 坂本和丸@歴史酒場銅雀台 (@kazumaru359) 2015, 6月 19
馬軍隊裏、一將踴出、乃典韋也。手挺雙鐵戟、大叫、主公勿憂。飛身下馬、插住雙戟、取短戟十數枝、挾在手中、顧從人曰、賊來十歩乃呼我。遂放開脚歩、冒箭前行。……韋乃飛戟刺之、一戟一人墜馬、並無虚發、立殺十數人、衆皆奔走。
――『三国志演義』第十一回 劉皇叔北海救孔融 呂温侯濮陽破曹操騎馬の隊から一人の大将が躍り出た。これぞ典韋。手に二本の鉄の戟をひっさげ、
「殿、ご案じあるな」
と一声、ひらりと地面に下り立ち、戟を両の小脇にはさんで、短戟(短い槍。わが国の手裡剣に相当)十数本を握り、
「賊めらが十歩のところまで来たら知らせろ」
と供の者に声を掛けるなり、雨とふりそそぐ矢の中に突きいった。
…(中略)…
その声とともに、典韋は息もつがせず短戟を飛ばせて、一戟一殺、一本もあやまたずにたちまち十数人を仆せば、他の者ども雲を霞と逃げ散った。(立間祥介訳)
呂布との戦いに敗れて退却する曹操、その窮地を救った典韋の活躍として有名なエピソードです。
ところでこの場面で典韋が投げつけている「短戟」という武器なのですが、これまで僕も和丸さんと同じく、「敵兵目がけて数十本投げてる」から短刀やクナイっぽいものをイメージしてました。また吉川英治ではここは「短剣」と表現されてましたし、横山光輝では盾の裏に仕込んだナイフみたく描かれてましたし。
でも和丸さんのツイートを見たとき、もしかしてちょっと違うんじゃないかってふと思ったんです。
だってこれ典韋ですよ。
八十斤(およそ50kg弱)*1の鉄戟を振り回す豪傑に、「"投げて使ってる"から"投げて使う"武器だろう」という合理的な推測が、果して当てはまるんでしょうか。
ひょっとしたらこの短戟、ホントは諸手で扱うような長物なんじゃないでしょうか?
「それを投げるのかよ!?」っていう、本来の使い方を逸脱する典韋の破格を表現したエピソードなんじゃないでしょうか?
そこで改めて、『演義』での「短戟」の用例をざっくり探してみました。
兩個棄了鎗、揪住廝打、戰袍扯得粉碎。策手快、掣了太史慈背上的短戟、慈亦掣了策頭上的兜鍪。策把戟來刺慈、慈把兜鍪遮架。
――第十五回 太史慈酣鬥小霸王 孫伯符大戰嚴白虎孫策と太史慈は槍を捨てて殴り合い、戦袍はばらばらにちぎれ飛んだ。孫策が素早く太史慈の背中の短戟を奪えば、太史慈も孫策の兜を取った。孫策が戟で太史慈を突けば、太史慈は兜でそれを防ぐ。
ここでは両者が取っ組み合うように戦っており、その様子からすると短戟も近接戦闘で使われるもののように思われます。ただ、太史慈がこれを背中に装備していたってのがちょっと気になりますけど。
芝整衣冠而入、行至宮門前、只見兩行武士、威風凜凜、各持鋼刀・大斧・長劍・短戟、直列至殿前。芝曉其意、並無懼色、昂然而行。
――第八十六回 難張溫秦宓逞天辯 破曹丕徐盛用火攻訒芝が衣冠を正して宮門まで来ると、そこには武士たちが威風凛々、それぞれ鋼刀・大斧・長剣・短戟を手にして殿前まで左右に並んでいた。訒芝はその意を悟ったが、しかし懼れる風もなく、毅然として進んだ。
こちらは、孫権が近衛兵だか儀仗兵だかで訒芝を脅したという場面です。訒芝を威圧しようという孫権の思惑により、兵が手にするのは鋼刀・大斧・長剣という物々しい武器ばかり。とすると、そこに並ぶ短戟もまたそれなりの得物でなくては迫力がないんじゃないでしょうか。
ちなみに儀仗兵が短戟を持つというのは、正史でも見ました*2。儀仗兵が持つのですから、きっと見栄えのするものなはずです。手中に収まるような投擲武器とはちょっと違うかもしれません。
『演義』で短戟が出てくる場面は大体こんなものです。意外と少ないんですね。
ちょっと決め手に欠けるなあと思っていたところ、どうも短戟とは「手戟」のことらしい、という説明を百度百科で見つけました。
なるほど、そういえば一個目に挙げた太史慈の短戟も、『三国志』太史慈伝では「手戟」と記されてました。
手戟ならば、『釈名』釈兵篇に「手戟、手所持摘之戟也」と、手に軽く持って使う戟だとはっきりあります。
『三国志』やその注にも用例がいくつかあって、董卓が呂布の密通を見つけて投げつけたとか、劉備が趙雲を謗った者に怒って投げたとか、孫策が厳輿に投げて殺したなどとあって、明確に投擲するものであることがわかります。
というわけで、本当に短戟=手戟かはもっとちゃんと調べないとダメですけど、もしそうだとしたら短戟もまた投げて用いる武器と言えるかもしれません。
が、それでも典韋は破格でした。
典韋、容貌魁桀、名冠三軍。其所持手戟長幾一尋。軍中為之語曰、帳下壯士有典君、手提雙戟八十斤。
――『太平御覽』巻四百九十六 人事部一百三十七 諺下 引『江表伝』典韋は、容貌逞しく、名声は三軍に抜きんでていた。その手戟は長さ一尋近くもあった。軍中ではこのために、「帳下の壮士に典君あり、手に双戟八十斤を提ぐ」と語られた。
一尋は八尺、三国時代の度量衡だとおよそ193cm。
明らかに片手で使うものじゃ、ましてや手中に十何本も握って投げつけるものじゃない!
もちろんこれは『江表伝』の一節ですから、このイメージを『演義』が踏襲してるかどうかはわかりません。ただ典韋とは、典韋が扱う武器とはこうゆうものなのだそうです。
だから、「典韋が投げてるからきっとそれは投げて使う武器」ってのは、1000年後の人が「DIOが投げて使っているから、きっとこのロードローラーという道具は投げて使う武器なのだ」と考えるようなものだったのかも。
実際、毛宗崗はこう言ってます。
「百歩箭不敵五歩戟、奇絶」と。
百歩箭、つまり呂布が160m先の戟を弓で射たことよりも、典韋が8m先の敵に「短戟」を投げつけたことの方が凄まじい、ということです。