曹魏諸王公の傾向と対策
曹魏諸王公一覧
・表の見方・
《人物名》
・諡号で書いた。ただし諡号が不明な人物が何人かいる。
・表のうち縦枠線を省くことで同母兄弟をまとめた。
特に赤字は嫡子、青字はそれに次ぐ重要人物、緑字は身分が低いと思われる女性(某姫)の子供で区別した。
《爵位》
・爵位(某)とあるのは継嗣を表す。青字は嫡子・嫡孫、赤字は養子の継嗣を表す。
・爵位が青太字で書かれているものは追贈されたことを表す。
《県王と郡王》
郡王を太字にすることで区別したい。きっといつか区別できる日が来るはず。
《見づらい》
・(′・ω・)
合わせて前回の系譜なども見ていただければ。
▼曹魏諸王公の傾向と対策▼
【魏晋革命時の諸王公一覧】
・曹楷
曹彰家*1曹彰統*2。済南王(246〜、20年)4400戸*3
・曹志
曹植家曹植統。済北王(233〜、33年)、4490戸
・曹廉
曹昂家曹均統。豊王(254〜、12年2代)、2700戸
・曹竦
曹鑠家曹茂統。陽都郷公(255〜、11年)、????戸
・曹宗
曹沖家曹拠統。平陽公(246〜、20年)、1900戸
・曹拠
曹拠家曹拠統。彭城王(232〜、34年)、4600戸
・曹宇
曹宇家曹宇統。燕王(225〜、41年)、5500戸
・曹緯
曹林家曹林統。沛王(232〜、34年2代)、4700戸
・曹孚
曹袞家曹袞統。中山王(232〜、34年2代)、3400戸
・曹桓
曹玹家曹林統。済陽公(223*4〜、43年2代)、1900戸
・曹澳
曹峻家曹峻統。陳留王(225〜、41年2代)、4700戸
・曹焜
曹矩家曹均統。琅邪王(232〜、34年2代)、3400戸
・曹?
曹幹家??統。趙王(232〜、34年2代)、5000戸*5
・曹嘉
曹彪家曹彪統。真定王(259〜、7年)、2500戸
・曹闡
曹整家曹拠統。郿公(236〜、30年)、1800戸
・曹椹
曹均家曹均統。屯留公(223〜、43年2代)、1900戸
・曹翕
曹徽家曹徽統。東平王(225〜、41年)、3400戸
・曹茂
曹茂家曹茂統。楽陵王(244〜、22年)、5000戸
・曹賛
曹蕤家曹均統。文安王(246〜、20年)、3500戸
・曹啓
曹霖家曹丕統。東海王(232〜、34年2代)、6200戸
・曹悌
曹礼家曹彰統。梁王(232〜、34年)4500戸
・曹温
曹邕家曹彰統。魯陽王(232〜、34年)、4400戸
・曹芳
曹芳家曹丕?彰?統。斉王(254〜、12年)、????戸
陳寿は評で曹魏の諸王の特徴を「王は名目のみで実質はなかった」「地位爵号は安定せず年々国替えされた」と述べており、またそれがそのまま現在一般でイメージされる魏の皇族の姿だと思います。
前者は、曹彪謀叛により魏王公が鄴に監視付きで留め置かれた*6との実例もあります。
しかし後者に関しては上記表をご覧のとおり、232年*7以前から継続して国にある王公が23国中13もあります。残り10国にしても5国は一度嫡子が途絶えている国、その他の5国も斉王芳や曹茂など特別な事情を持つ者を含みますので、「地位爵号は安定せず年々国替えされた」はあまり当てはまるものではないように思います。むしろそれは曹植ひとりのイメージが拡大された結果ではないでしょうか?曹植にしたところで、彼の息子曹志は父から家督を継いでから33年、国替えされることなく済北王の地位にあります。
諸王のうち、もっとも長く封国を継続させたのは曹宇家・曹峻家・曹徽家の41年です。この三家は、本来諸王は県王であるべき年代に郡王として封じられてますから、特例扱いだったことが窺えます。
ちなみに諸公を含めますと、曹玹の系統と、そして曹均の屯留公家の2代43年が最長となります。
曹均は他家に養子を出すこともっとも多く、そのうち曹均嫡流は公位止まりながら、他三人がいずれも王位に昇っています。これに次ぐのは曹彰の三王、曹拠の一王二公。
ちなみに兄弟のうち最大食邑を誇るのは曹宇の5500戸。ですが曹均四血統を合計するとそれをはるかに超える11500戸!*8 *9
それにしても、このように表にすることで曹丕系統の貧弱さが目立ちますね。
曹操の子供たちのしぶとさとは対照的に、本来初代皇帝の宗族であるはずの曹丕の系統はたったの5人(248年に曹協賛王家が断絶して以降)。そのうち曹均系ひとり、曹彰系がふたり。曹芳・曹詢の見方によっては実に曹彰四王を明帝は抱え込んでしまうことになりますねぇ*10。
それはともかくとして、結局のところ曹丕の命脈、すなわち曹魏直系をたったひとり保っていたのは東海王曹霖だけだったのですね。なんというていたらく。家康の爪でも齧らせたいです曹丕。
自分、三国時代に疎いのでこの頃一連の反司馬氏騒動については何も知らないのですが、四代目皇帝がこの東海王家から出たことは興味深いです。『魏略』に従うなら、曹拠を擁立せんとする司馬師に対し郭太后は「明帝の血筋を断ってしまってよいものか」とそれに反対しました。明帝というか、初代皇帝の血筋じゃない人が即位しちゃうという。呉で言えば孫奉が即位するようなもの、蜀で言えば劉徳然が即位しちゃうようなものですよ。
ところで魏の皇族の封国を眺めるに、まだ全ての地名を調べた訳ではないので不確実なのですが、ほとんどがちゃんと実質上の魏の領内に封じられていますよね。蜀では魯王や梁王*11、呉は南陽王、斉王、琅邪王、陳王、中山王などなど、みんな魏が好きですねー。ねー。
【晋代以降の曹氏】
「魏帝曹奐を陳留王、食邑一万戸とし、鄴に住まわせた。曹氏諸王を県侯とした」(『晋書』武帝紀) *12
・曹楷
「武帝受禪,尊為皇太后,宮曰崇化.初置宮卿,重選其職,(中略)宗正曹楷為少府」(『晋書』文明王皇后伝)
「楷,泰始初為崇化少府,見百官名.」(『三国志』任城威王彰伝、引裴注)
・曹志
曹志は『晋書』に立伝されておりますね。詳しいことなどは読んでいただければと。
裴注『曹志別伝』に「司馬炎が曹志を中撫軍にとりたて、常道郷公(即位前の曹奐)を迎えに鄴へ向かわせた」とありまして、高貴郷公紀に「使持節行中護軍・中塁将軍の司馬炎を北方にやり常道郷公を迎えさせた」とあるこのことかと思われます。『晋書』にも「武帝を撫軍將軍にして,鄴へ陳留王を迎えさせた。曹志は夜、謁見した」とありますね。
晋が禅譲を受けると改めて鄄城公に封じられます。曹氏諸王を県侯とした、に反しますね。これはこの後の三人にも言えることです。
・曹宇
『集解』によれば、「『通典』巻九十三「晋武帝咸寧四年、陳留国上燕公是王之父、王出奉命於帝祖、今於王為従祖父、有司奏応服周、不以親疏尊卑為降。詔曰、、王奉魏氏、所承者重、不得服其私親。是宇入晋降封燕公、至晋咸寧始薨也。」だそうです。
訳せない(′・ω・)
しかし咸寧年間とは長生きっすねぇ。
・曹嘉
魏晋革命にあたって、高邑公に封じられています。国子博士、東莞太守などを歴任し、李重さんには「才能は曹志・曹翕に及ばないが、素質はある」と褒められましたバーイ裴松之。
『晋書』曹志伝にも「從弟高邑公嘉」と登場しています。
・曹翕
魏晋革命にあたって、稟丘公に封じられています。上記のように曹志に次ぐ名声を持っていました。『解寒食散方』という医術書を書きましたバーイ裴松之。
『解寒食散方』は『隋書』経籍志にも見られると『集解』が言っていますが、でも『晋書』にはいません。
・曹芳
裴注引く『魏世譜』によれば、魏晋革命で邵陵県公に封じられ、泰始十年に亡くなっています。仮にも皇帝なのに県公とかカワイソス。曹宇は郡公だってのに…。廃されたんだから仕方ないですけどね。
【曹喈】
『集解』によれば、『陳思王集』に「仲雍哀詞」がある。いわく曹喈あざなを仲雍、魏太子の仲(次男ですか?)である。三月に生まれて五月に死んだ。『魏志』に文帝・明帝の子に仲雍は見られず、おそらく夭折し封国にも就かなかったことから削除されたのだろう。
以上、曹魏の皇族まとめでした。
とは言いますがちょっと荒い部分が多いと思いますので、訂正などいただければ大変嬉しいです。そしてちょっとおこがましいですが今後皇族ネタがいろんなところで扱われるようになれば、いいですねぇ。
次は蜀と呉の皇族…?いやあいつら記録適当すぎじゃけん、、、やるなら司馬氏ですね。八王ひゃっはー。
とりあえずは中国仏教と皇族ネタを行ったり来たりしたいなと思います。
では失礼しました。