三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

安楽公劉禅は賓客?

賜山陽公劉康、安楽公劉禪子弟一人為駙馬都尉.(『晋書』武帝紀)

駙馬都尉の歴史は漢武帝に遡り、従来は特に特殊な官職でもなく、例えばコイツがなってます。

光禄勲に属し、比二千石。奉車都尉と騎都尉と合わせて三都尉と言う。
それが魏以降、三都尉は次第に外戚や宗室に与えられるのが通例となり、晋武帝の頃にはほぼ固まり"奉朝請"の役割となっていた。単なる官職ではなく一種の特権を表す官のようですね。*1


さて気になるのは劉禅の子弟がその特権号を与えられた上、ここで山陽公とさも同格のように並べられていることです。加えて『宋書』荀伯子伝にある上奏によれば*2同年に衛公姫署と宋侯孔紹の子も駙馬都尉になっていることです。
殷・周・漢の賓客と並んで蜀漢が…?
劉禅は271年に逝去。その後継について『三国志』は触れていませんが、裴注『蜀記』には思公と諡され*3、子の劉恂が継いだとあります。引き続き安楽公であったかどうかはわかりません。孫盛は永嘉の乱劉禅の後裔は絶えたとしていますが、『晋書』には劉禅の逝去を含め関連する記事はありません。

*1:聞きなれない奉朝請ですが、『晋書』職官志によれば元は官職ではなく、後漢の頃は罷免された三公や外戚・宗室・諸侯に与えられた特権号だったと。その後変動はあったものの駙馬都尉は晋代通して奉朝請だったそうです。より詳しい解説はこちらのサイトさんにありました。 http://home.t02.itscom.net/izn/ea/sup04z.html

*2:前回前々回も引いた例の上表です

*3:そーいえば劉禅諡号って、なんか後世の各々が好き勝手に読んでるんで面白いですよね。五胡の趙漢は懐帝と追贈し、『肅氏続後漢書』は少帝、『郝氏続後漢書』は末帝、もちろん『三国志』は後主と呼んでます。朱熹たちはなんて読んでるのでしょうね