三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

曹魏皇族の郷公





 
 諸侯王の庶子の封建というのは、たぶん漢武帝の推恩令に始まると思います。しかしこれは単に次男坊に食い扶持を恵もうというものではなく、その真意は広大な諸侯王の領土を削ることにありました。これが後漢になり諸侯王の権力が大幅に削がれますと、庶子封建は純粋な恩恵へと変化しました。
 曹魏はこれら庶子封建を引き継ぎつつ、より具体的に制度を定めました。つまり『三国志』文帝紀黄初三年にある「初めて封王の庶子を郷公と為し,嗣王の庶子を亭侯と為し,公の庶子を亭伯と為すを制す。」という、父王の爵に応じた庶子封建の基準であります。後漢では兄弟間でも県侯〜亭侯でまちまちであったものに対し、こちらは皇帝から見た親等順に拠った序列と言えるでしょう。


 では果たしてこの制度は現実に機能していたのでしょうか?嗣王と公の庶子は例があまりに少ないので、封王庶子と郷公の関係について見てみます。
 曹魏代で封王庶子だったと思われる全員を系譜でまとめたものが冒頭の表になります。さらにグリーンのうち、ワクで囲った者が郷公であったことが確認できる封庶王子です。
 これを見ますと、封王庶子は11人いるのに対し、郷公であった者は7人。すなわち高貴郷公曹髦・常道郷公曹奐・陽都郷公曹竦・東安郷公曹闡・昌郷公曹賛・高陽郷公曹苗・穆郷公曹志です。6割程度、数字としては「封王の庶子を郷公と為す」が機能していたと言えるか微妙なところであります。
 しかし残った4人を見ますと、実は全員が他家に養子に出された者、それも黄初三年以前に養子として他家を継いだ者なのです。つまり制度が施行された黄初三年時点では既に庶子ではなかったんですね。
 という訳で、記録にある限りでは封王庶子の全員が郷公に封ぜられており、逆に郷公に封ぜられた者の全員が封王庶子であったのです。