三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

蜀郡趙氏 【成都四姓】

 
 後漢最期の三公である趙温、董卓政権下で活躍した三公の趙謙、党錮の禁で粛清を受けた八俊の趙典、桓帝冊立に関与した三公の趙戒。
 後漢後期により突如台頭した蜀郡成都県の趙氏らは、一家三代で三公級を人士を4人も輩出しました。後漢を通じて、一族から三公を3人以上輩出した家系は、汝南袁氏、弘農楊氏、汝南許氏、汝南張氏、そして蜀郡趙氏と5例しかありません。
 なので、その権勢の様子は、『華陽国志』蜀志にも以下のようにあります。

 治績 尤も異たり。後に廣漢の劉龐の令に為る有り、大姓 恣く縱にし、諸趙は公たるに倚り、故に法を犯すこと多し。濮陽太守趙子真、父子 強膻たり。龐 其の罪を治め、震肅せざる莫し。
 郫の民たる楊伯侯 奢侈たり、大いに冢營を起こす。龐の郫令に為るに因りて、伯侯 遂に成都に徙占す。龐 復た成都に為りて、豪 右に敬服す。
 ……四姓は柳、杜、張、、郭、楊氏有り。富むるもの、先に羅裒、郄公有りて、後に郭子平有り。奢豪たるもの、楊伯侯兄弟なり。


 以上は劉龐が成都令であった頃の活躍を書いたものですが、同時に成都県の大姓の驕奢ぶりにも触れられています。
 もともと成都四姓に数えられる豪族でしたが、特に"諸趙倚公"、つまり三公である趙戒らの権勢をいいことに、法を犯し、県令の支配に従わなかったとあります。
 中央で大きな権力を有し、地元でも四姓に連なる蜀郡成都県の趙氏。しかしその割には、後漢以降は全く動向がわからないのであります。蜀漢政権で何か関与しなかったのでしょうか。