長崎聖福寺、福済寺の関帝像
昨日の記事の最後で、聖福寺、福済寺の関帝についてちょっと触れました。
そもそも長崎には、江戸時代以来有名な唐寺(中国風の寺院)が四つありました。興福寺、崇福寺、聖徳寺、福済寺の「四福寺」です。
このうち興福寺と崇福寺に関帝像があることは有名であり、たとえば哲舟さんの全国関帝ガイドにも、ウィキペディアにも、あるいは中林史朗先生の論文にも両寺のことは書かれております。中国の寺院では関帝を伽藍堂の守護神(伽藍神)とすることが多いので、唐寺もそれに倣っているというわけです。
しかし一方で聖徳寺と福済寺については特に言及されてるのを見たことがなかったんで、てっきりないもんかと考えてました。けど今回のシーボルトの件でもしやと思って検索してみたら、えらい思い違いだったことを知りました。また、なんで両寺の関帝像があまり話題にされないのかも。
聖福寺の関帝像について。
まずこちらの公式ページにもあるように、聖福寺の関帝祭と言えば江戸時代では特に有名だったそうです。
『長崎市史 風俗編』(大正十四年刊)には、四唐寺ではいずれも関帝の誕生祭を5月13日に行っていたが、聖福寺の関帝祭は唐船の海上安全祈願の儀式も兼ねていたため四寺の中でも一際規模が大きかった、とあります。
では肝心の関帝像はと言うと、これが公式ページにも記事がない。ウィキにもないし。
そこで『長崎市史 地誌編 仏寺部下』(大正十二年刊)で調べたところ、ここにははっきりと、当時の聖福寺の観音堂に関帝像ならびに関平像と周倉像それぞれ一体ずつが祀られていた、と書かれておりました。
じゃあ今はどうなのか。非公開なのか、もしくは現存していないのか。そもそも観音堂の現在すら書いてないので不思議だったのですが、あれこれ探してようやく、2011年のナガサキピースミュージアムにて関帝像が特別に展示されていたことが判明しました。現存はしていたんですね。
でもその際の写真を見ての通り、関帝像はひどい劣化のしようでした。きっとこの劣化が普段非公開だった理由だと思いますけど、その原因はどうも、戦火らしいです。長崎で。
その写真は下記ページで見られますが、だいぶ凄惨な状態です。
また写真には関帝像、関平像しかないので、周倉像は失われたのでしょうか。
http://jcpngsk.main.jp/news/2011/1106/20110614tenji.html
http://hirosuke.at.webry.info/201106/article_5.html
そしてもうひとつの福済寺。
福済寺もまた江戸時代初期以来の歴史がある唐寺で、本堂などは国宝に指定されていました。しかしやはり戦火に遭い、こちらは完全に焼失してしまったそうです。現在は跡地に長崎観音が建てられています。
それでも先ほどの『長崎市史 地誌編 仏寺部下』によれば、焼失前はやはり関帝像、関平像、周倉像が福済寺の青蓮堂に安置されていたらしいです。曰く、「青蓮堂。一に観音堂と云ふ。……仏殿の結果以内正面壇上には観世音菩薩、善財童子、龍女、……而して左壇には天后聖母とその侍女の像が安置してある。右壇には、関帝、関平、周倉等の像がある」と。
しかもこんな伝説までありました。「往時関帝像の傍に関帝の愛馬たりし石兎馬の塑像があつた。いつも夜閑なるころほひ、この馬、数町の間を馳せ行くのを常とし、往々深夜に轡の音が聞ゆると云ふ噂が高かつた。この事遂に木庵の耳に入りしが、木庵はこれ衆を惑すなりとて、如意をもつて石兎馬の面に一撃を与へた。而して石兎馬は竟に竹の破るるやうに裂けてしまつた。その後は深夜に轡の音の聞ゆるやうな事はなかつたと云ふことである」という、まさか赤兎馬(石兎馬)の伝説です。いかにこの関帝像が親しまれていたかが偲ばれます。
もちろん、現在はこの関帝像も青蓮堂もありません。
このように長崎の四唐寺である興福寺、崇福寺、聖徳寺、福済寺は、いずれも江戸時代から関帝を祀っていたことがわかりました。このほか、当時の中国人居留区とされた唐人屋敷にも関帝堂と呼ばれる建物があったそうです。また現在では観音堂内で祀られているとも。
今でこそ関帝廟と言えば横浜とかが有名で、僕も長崎のことはほとんど知りませんでしたけど、いやさすがは中国に一番近かった長崎。しかも歴史があります。他の関帝廟の多くが明治以降から始まったものであるのに対し、長崎の各堂は江戸時代の関帝信仰の様子をなお伝えている。たとい現存しなくても、です。