賈南風と娘
西晋のバカ皇帝でおなじみの恵帝。
その妻で、これまた淫乱残虐でおなじみの賈皇后こと賈南風。
ふたりの間にはついに皇子が生まれず、ただ数人の女子がいたのみであり、正史たる『晋書』にも、
惠帝即位、立為皇后。生河東、臨海、始平公主、哀獻皇女。
- (賈南風は)恵帝が即位すると、皇后に立てられた。河東公主、臨海公主、始平公主、哀獻皇女を生んだ。
――『晋書』巻三十一 惠賈皇后伝
と、そっけなく記録されるだけです。
ところが、その正史『晋書』の元本のひとつとされる臧榮緒『晋書』には、正史にはないこんなエピソードがありました。
賈后二女、宣華・女彦。封宣華弘農郡公主。女彦年八歳、聡明岐嶷、便能書、學諷誦詩論。病困、賈后欲議封。女彦語后曰、我尚小、未及成人、禮不用公主。及薨、諡哀獻皇女、以長公主禮送葬。
- 賈皇后には二人の娘がおり、宣華と女彦といった。宣華は弘農郡公主に封建された。女彦は八歳にして、聡明で、書をよくし、詩経と論語をそらんじた。しかし病み苦しんだので、賈皇后は(女彦を公主に)封じようとした。すると女彦は賈皇后に、「私はまだ幼く、成人してないので、礼では公主となることはできないはずです」と言って断った。女彦が亡くなると、哀献皇女と諡され、長公主の礼で葬送された。
――『太平御覽』巻一百五十二所引 臧榮緒『晋書』
ここで表現されてるのは司馬女彦の聡明さですけど、むしろ死の淵にある娘を心配する賈皇后の姿って方に興味がいきました。
賈皇后といえば、国を顧みず夫を顧みず、城下で若い男をひっかけては誘拐してたイメージが強い人ですんで*1、こういうごく普通の親子愛を垣間見させるエピソードってのは、なんというか、へーって感じです。
*1:もっとも国家体制としての賈皇后政権については、近年客観的な研究がちゃんと進んでるところです