三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

子を棄てて甥を助ける

訒攸字伯道、平陽襄陵人也。
……永嘉末、沒于石勒。……石勒過泗水、攸乃斫壞車、以牛馬負妻子而逃。又遇賊、掠其牛馬、歩走、擔其兒及其弟子綏。度不能兩全、乃謂其妻曰、吾弟早亡、唯有一息。理不可絕、止應自棄我兒耳。幸而得存、我後當有子。妻泣而從之、乃棄之。其子朝棄而暮及、明日、攸繫之於樹而去。
……攸棄子之後、妻不復孕。過江、納妾甚寵之。訊其家屬、説是北人遭亂、憶父母姓名、乃攸之甥。攸素有紱行、聞之感恨、遂不復畜妾、卒以無嗣。時人義而哀之、為之語曰、天道無知、使訒伯道無兒。弟子綬、服攸喪三年。
 ――『晋書』巻九十 訒攸伝

訒攸は字を伯道といい、平陽襄陵の人である。
……西晋末、石勒(西晋を滅ぼした異民族)に囚われた。……石勒が泗水を渡ると、訒攸は車を捨てて、牛馬に妻子を乗せて逃走した。また賊に遇い、牛馬を奪われたので、自分の子と弟の子である訒綏を負ぶって歩いて逃れた。しかし二人とも連れるのは無理と考え、そこで妻に「私の弟は早くに亡くなり、ただ息子一人がいるだけだ。理は絶ってはならない、我が子を棄てて行こう。幸いに生き延びることができたら、子はまたできる」と言った。妻は泣いて従い、子供を棄てた。しかし棄てられた子がまた夜に追いついてきたので、次の日、訒攸はその子を木に縛って立ち去った。
……訒攸が子を棄てた後、妻は再び子を成すことはなかった。江東に逃れてから、訒攸は妾を置いてとても寵愛していた。しかしその家族を訊いてみると、なんと訒攸の姪にあたることが分かった。訒攸は普段から紱行があったが、これを知って後悔し、二度と妾を置かず、後継ぎがないまま亡くなった。世間の人は彼を義として哀れみ、「天道はご存じないのだろうか、訒伯道をして子を無からしめんことを」と言った。助けられた甥の訒綬は、訒攸のため(本来は九ヶ月でよいところを、父母に対して行うのと同じ)三年の喪に服した。


 死んだ兄弟の子を助けるために自分の子を見捨てる、という逸話は美談としてこの時期によく見かけるような気がします。
 たとえば三国志マニアとしては夏侯淵*1の例を思い出しますし、また探したら後漢*2西晋*3にも例がありました。
 古代中国において、後継を絶やすというのは大変な不孝だったといいます。死んだ人の霊を祀り慰撫することができるのは、その人と血縁のある子孫だけとされていたからです。つまり自分が後継ぎを遺せなかったら、自分の祖先たちに対する祭祀も絶えてしまうことになります。もちろん自分自身も死後祭祀を受けられないし。これらの逸話が単に「兄弟の子を助けた」のではなく、「"死んだ"兄弟の子を助けた」である理由です。

 でも訒攸の場合は純粋な美談と言っていいのか、なんとも微妙なオチがついてることが面白いです。
 知らずとは言え自分の姪を妾にするという不義を犯し、それがトラウマになって子をなせぬまま死んでしまうという、我が子を棄ててまで義を果たしたのにあんまりな結末。
 これは美談っていうか、むしろ子供を棄てたことへの因果応報を表現しているようにもちょっと思えます。
 それでもこの訒攸のエピソードは、ほぼ同じ形で『世説新語』徳行篇にも収められていますから、少なくとも六朝時代当時にあってこのような行動は高く評価されるものだったはずです。
 しかし、唐代に編纂された『晋書』の評価はちょっと違うようです。

史臣曰、……而攸棄子存姪、以義斷恩、若力所不能、自可割情忍痛、何至預加徽纆、絕其奔走者乎。斯豈慈父仁人之所用心也。卒以絕嗣、宜哉。勿謂天道無知、此乃有知矣。

史臣曰く、……しかし訒攸が子を棄てて甥を助けたことは、義を以て慈しみを断つことで、もしどうすることもできなかったら、当然情を割き痛みに堪えるべきで、どうして(子を)縛ったりして、逃げられないようにしたのだろうか(?)。これがどうして慈父仁人のすることであろうか。後継ぎないまま死んだ、よいではないか。天道は(訒伯道に子がないことを)ご存じないなどと言うな、(子を棄てたことを)ご存じだったからこそなのだ。

 自分の漢文読解力ではちょっと怪しいのですけど、たぶん『晋書』は訒攸の子棄てを激しくなじってるんじゃないでしょうか。
 こないだ、明清の研究をしてる先生が『世説新語』でこのエピソードを見てえらく不思議がってました。
 明清の家族倫理からすれば、亡弟とのためとは言え自分の継嗣が絶えるリスクを犯すなんてのはとんでもない不孝なんだそうです。
 その時はやっぱ六朝と明清じゃ感覚が結構違うんだなって思っただけでしたけど、『晋書』の論評を見るにもしかしたらこの辺に転換点があったのかもしれません。

*1:「魏略曰、時兗豫大亂、淵以饑乏、棄其幼子、而活亡弟孤女」(『三国志』巻九 夏侯淵伝裴注)

*2:「更始時天下亂、平弟仲為賊所殺。其後賊復忽然而至、平扶侍其母、奔走逃難。仲遺腹女始一歲、平抱仲女而弃其子。母欲還取之、平不聽曰、力不能兩活、仲不可以絕類。遂去不顧、與母俱匿野澤中」(『後漢書』列伝二十九 劉平伝)とあるように、劉平という人物が賊から逃れる際に、自分の子供を見捨てて亡き弟の娘を助けたとあります。

*3:「太和中、拜吳興太守、加秩中二千石。……餘杭婦人經年荒、賣其子以活夫之兄子。武康有兄弟二人、妻各有孕、弟遠行未反、遇荒歲、不能兩全、棄其子而活弟子。嚴並褒薦之」(『晋書』巻七十八 孔愉伝附孔嚴伝)とあり、呉興太守だった孔嚴が、自子を売って夫の兄の子を養った婦人や、弟の子を助けて自子を棄てた兄を褒賞したとあります。