三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

「三国志 Three kingdoms」全95話を観る その2

第2話「曹操、亡命す」

呂布貂蝉の出会い
 曹操王允秘蔵の七星刀を使用したことから、董卓王允を暗殺計画の黒幕かと疑う
⇒命を受けた呂布王允邸に乗り込み、思いがけず貂蝉と出会う
貂蝉は父の無罪を呂布に釈明
王允邸にちゃんと七星刀(実は偽物)があったため、呂布も疑いを解く
という流れで、本作では演義より一足早く、呂布貂蝉接触させています。演義にはない、本作のオリジナルストーリーですね。
 貂蝉は、言わずもがな架空の人物ですけど、彼女をどう扱うか、そしてどういうキャラクターとして描くかでその作品の性格が決まると言っても過言ではない、重要な人物です。
 僕の見るところ、貂蝉のキャラクターはだいたい次の三要素の比重で決まります。漢に対する想い、義父たる王允に対する想い、呂布(あるいはほかの男性)に対する想いです。
 たとえば演義貂蝉ですと、漢や王允に対しては厚く忠と孝をそそぐ一方で、呂布は単なる計略上のターゲットとしてしか見ていません。漢10:王允10:呂布0、みたいなイメージです。こうすることで、演義貂蝉を忠孝に満ちた理想の女性として描くことに成功したのですが、まあ正直面白味は全然ないです。演義貂蝉はあまりに決断的すぎて、葛藤とかがまるでないんですから。
 これが例えば、漢7:父7:呂布7とかだと、計略と呂布との狭間で葛藤する悲哀的な貂蝉になります。中国で伝統的な貂蝉像がたぶんこんな感じだと思います。見た感じ、本作の貂蝉もこれになりそうな気がします。
 あるいはほかの作品を見れば、『蒼天航路』は、漢1:父1:董卓7ってところでしょうか。破格の大悪党に惹かれる、非常に野心的な女性でした。漢0:父0:呂布0なんて貂蝉もありました。主体性を持たず、ただただ運命に翻弄される悲運の女性です。陳舜臣『秘本三国志』や無双3がこんなイメージでした。日本の貂蝉は、わりにこのパターンが多いかな?

◆桃園の誓い
 実にあっさりとした桃園の誓いでしたねえ。話と話の間にとりあえず挿し込んだって感じです。いいのかこんなので。
 ところでこないだふと気づいたんですけど、日本と中国では桃園の誓いのイメージが違くないですか?
 中国の桃園の誓いだと、本作がそうであるように、三人が横並びになって天に向かって義兄弟になることを誓います。でも日本の桃園の誓いは、あんまこうしたかたちをとらず、もっぱら三人が互いに向き合って、盃なり武器なりを合わせて誓いを交わすことが多い気がします。つまり何に対して義兄弟となることを誓うのかが違うと思うんです。天地神明に誓う中国と、お互いに誓い合う任侠的な日本、です。
 いや何でこう思ったかと言うと、こないだちょっと演義のマンガを描かれた漫画家さんとやりとりする機会があったんですけど、その方はどうも中国的な桃園の違いがピンとこなかったらしいんです。桃園の誓いってのは天に向かって誓うものなんですと僕が言っても、なかなか通じない。
 でも考えてみたら、そもそも僕にも桃園の誓いといえば乾杯のイメージがある。和丸さんのイベントとかで、普通に「生まれた時は違えども〜」って乾杯してた。桃園の誓いになぞらえて乾杯するってのは三国志オタクあるあるで、うちの師匠なんかは怪しい秘密結社みたいだと笑うんですけど。考えたらこれも中国的な桃園の誓いからは出てこない発想です。
 日中の三国志イメージの違いとして、ちょっと面白そうじゃないですか?



私は、この本とは、一切関係ありません。偶然ここへ来て、書き込みしています

 

中華思想の根源がわかる! 中国古代史入門 (歴史新書)

中華思想の根源がわかる! 中国古代史入門 (歴史新書)

 殷から唐まで、さまざまなジャンルを通じて古代中国の思想がわかりやすくまとめられている本です。
 とくに、

 第2章の「〈三国志〉を知る 魏以外の二国は正統ではないのか?」と、
 第3章の「〈歴史思想〉を知る 中国史学に客観性・科学性はあったのか?」

が大変すばらしい記事でした。
 もしすばらしくなかったら、文句はここのコメントまでどうぞよろしくお願いします。

「三国志 Three kingdoms」全95話を観る その1

 第1話「曹操、刀を献ず」

黄巾の乱
 ……がこのドラマではないんですね。「三国志」の幕開けといえば黄巾の乱ってイメージが完全に固定されてるんで、初めて知ったときはちょっと驚きました。
 カットされた理由は何なんだったんでしょう?
 尺の都合?
 それとも、劉備ではなく曹操を物語の主軸にするためでしょうか。本作のガオ・シーシー監督は、曹操を第一の主人公にしたかったとも聞きます。
 現代の三国志ドラマだと黄巾の乱はどういう描かれ方をするのか、興味あったんですけどね。
 演義だと悪鬼羅刹のような黄巾賊ですけど、近現代の中国だと黄巾の乱は農民蜂起であると見なされ、わりに好意的に評価されているそうですので。

王允
 破天荒な曹操の真意をただひとり見抜き、しかもその曹操から一本取るかのような不敵さも。なかなかひと癖ありそうな硬骨漢に描かれてますね。
 王允は、もちろん演義では董卓を討った忠臣として非常に評価が高いんですけど、最近の日本ではあんまいい扱いをされない気がします。たぶん、董卓呂布の暴虐ぶりが逆に人気を呼んでいるせいじゃないかと思います。彼らのスケールを大きくすればするほど、それとの対比で王允は小物になってしまうって感じです。『蒼天航路』や三国志大戦王允がまさしくそうで、小賢しい策謀家ってイメージにされてました。
 女を利用する美女連環の計も、日本人にはあまりウケがよくなさそうです。

曹操役の陳建斌
 1970年、新疆ウイグル自治区ウルムチ生まれ。
 2004年公開の本作の撮影時には、まだ30代前半。つまりこの時点(189年)の曹操とほぼ同い年だったんですね。
 なんて言うか、このあとの老けてく曹操にぴったりだもんで、そんな若いとは...

呂布役のピーター・ホー(何潤東)
 いや、すっごいかっこいいです!
 顔ももちろんですけど、体型もシュッとしてて綺麗ですし、しかも鎧の下は相当な筋肉質。
 周瑜とか趙雲とか馬超とか、三国志にはいろんな美丈夫が登場しますけど、本作では呂布が断トツでかっこいいと僕は思います。
 呂布は、あの演義ですら「眉目麗秀」と明記するほど、中国では伝統的に美丈夫とされます。たぶん貂蝉とセットにされる過程で、彼女と釣り合いが取れるように美化されてったんでしょう。ピーター・ホーはそんな呂布像にぴったりでした。陳建斌と5歳しか違わないなんてそんな
 
◆七星刀?七星剣?
 日本語字幕では「七星剣」ってなってますけど、台詞では「七星刀」って言ってる気がするような。
 ビジュアル的にも刀は片刃、剣は諸刃なので、これは刀のはずなんですけど。字幕が間違ったかな?



袁術の皇后

 九州春秋曰、司隸馮方女、國色也。避亂揚州、術登城見而悦之、遂納焉、甚愛幸。諸婦害其寵、語之曰、將軍貴人有志節、當時時涕泣憂愁、必長見敬重。馮氏以為然、後見術輒垂涕、術以有心志、益哀之。諸婦人因共絞殺、懸之廁梁、術誠以為不得志而死、乃厚加殯斂。
―『三国志』巻六 袁術伝裴注

 馮方の娘は、大変な美人だったので、袁術に見初められてその後宮に入り、大変な寵愛を受けました。
 しかしほかの夫人たちはそんな馮氏を妬み、こっそり彼女へ、「袁将軍と合う時は涙を流して、悲しげな風をすればますます気に入られますよ」と助言。馮氏がその通りにすると、袁術は彼女をますますかわいそうに思います。
 そうしたタイミングで、夫人たちは馮氏を縊り殺し、首を吊ったように見せかけたので、袁術は彼女の自殺を疑わず、夫人たちはまんまと寵愛深い馮氏を亡き者にできたのでした。
 『三国志武帝紀の注に引かれている、曹操のいわゆる「己亥令」に、「袁術が皇帝を名乗ると、……ふたりの夫人が皇后の地位を争った」と言及される部分がありますので、これもそうした皇帝袁術の皇后をめぐる争いなのでしょうね。

 ところが演義の方だと、馮氏はめでたく袁術の皇后になってるんです。

  遂建號仲氏、立臺省等官、乘龍鳳輦、祀南北郊、立馮方女為后、立子為東宮
  かくして国号を仲とし、台・省の官制を立て、龍輦・鳳輦に乗り、南郊・北郊で祭祀をし、馮方の娘を立てて皇后とし、子を立てて皇太子とした。
―『三国志演義』第十七回

 演義が、史実で皇后になってない人を皇后にする例は、たぶんほかでは糜夫人くらいなはずです。よほど演義は馮氏のことを気に入ってたんですね。
 悲運の馮氏は思わぬかたちで報われました。
 よかったね。
 
 

華佗流鎮痛術

公袒下衣袍、伸臂令佗看視。佗曰、此乃弩箭所傷、其中有烏頭之藥、直透入骨。若不早治、此臂無用矣。公曰、用何物治之。佗曰、某自有治法。但恐君侯懼耳。公笑曰、吾視死如歸、有何懼哉。佗曰、當於靜處立一標柱、上釘大環、請君侯將臂穿於環中、以繩繫之、然後以被蒙其首。吾用尖刀割開皮肉、直至於骨、刮去骨上箭毒、用藥敷之、以線縫其口、方可無事。但恐君侯懼耳。公笑曰、如此容易、何用柱環。

関公が肌ぬぎになって臂を差し出すと、華佗は言った。
「これは鏃の毒で、烏頭が塗ってあるため、毒が骨にまでしみております。早いうちに治しておかねば、この腕は使えなくなりましょう」
「どうして治すのじゃ」
「療法は心得ておりますが、荒療治にござりますぞ」
関公は笑った。
「わしは死をもいとわぬ者じゃ。心配せずともよい」
「さらば、静かな部屋に柱を一本立てて鉄の輪をとりつけ、それに腕を通していただいたうえ、縄でしっかり縛り、顔を布でかくしていただきます。そのうえで、わたくしが鋭利な小刀で肉を切り裂き、骨をむき出しにして、骨についた鏃の毒を削ぎ落とし、薬を塗ってふたたび縫合いたせばよろしいのでござりますが、いかがでござりましょうか、おやりになりますか」
「なんだ、それしきのことなら、柱なぞいりはせぬわ」(立間訳)

――『三国志演義』第七十五回 關雲長刮骨療毒 呂子明白衣渡江



 なんで麻沸散を使わないの...?

典韋の短戟

馬軍隊裏、一將踴出、乃典韋也。手挺雙鐵戟、大叫、主公勿憂。飛身下馬、插住雙戟、取短戟十數枝、挾在手中、顧從人曰、賊來十歩乃呼我。遂放開脚歩、冒箭前行。……韋乃飛戟刺之、一戟一人墜馬、並無虚發、立殺十數人、衆皆奔走。
 ――『三国志演義』第十一回 劉皇叔北海救孔融 呂温侯濮陽破曹操

 騎馬の隊から一人の大将が躍り出た。これぞ典韋。手に二本の鉄の戟をひっさげ、
「殿、ご案じあるな」
 と一声、ひらりと地面に下り立ち、戟を両の小脇にはさんで、短戟(短い槍。わが国の手裡剣に相当)十数本を握り
「賊めらが十歩のところまで来たら知らせろ」
 と供の者に声を掛けるなり、雨とふりそそぐ矢の中に突きいった。
…(中略)…
 その声とともに、典韋は息もつがせず短戟を飛ばせて、一戟一殺、一本もあやまたずにたちまち十数人を仆せば、他の者ども雲を霞と逃げ散った。(立間祥介訳)

 


 呂布との戦いに敗れて退却する曹操、その窮地を救った典韋の活躍として有名なエピソードです。
 ところでこの場面で典韋が投げつけている「短戟」という武器なのですが、これまで僕も和丸さんと同じく、「敵兵目がけて数十本投げてる」から短刀やクナイっぽいものをイメージしてました。また吉川英治ではここは「短剣」と表現されてましたし、横山光輝では盾の裏に仕込んだナイフみたく描かれてましたし。
 でも和丸さんのツイートを見たとき、もしかしてちょっと違うんじゃないかってふと思ったんです。
 だってこれ典韋ですよ。
 八十斤(およそ50kg弱)*1の鉄戟を振り回す豪傑に、「"投げて使ってる"から"投げて使う"武器だろう」という合理的な推測が、果して当てはまるんでしょうか。
 ひょっとしたらこの短戟、ホントは諸手で扱うような長物なんじゃないでしょうか?
 「それを投げるのかよ!?」っていう、本来の使い方を逸脱する典韋の破格を表現したエピソードなんじゃないでしょうか?


 そこで改めて、『演義』での「短戟」の用例をざっくり探してみました。

 兩個棄了鎗、揪住廝打、戰袍扯得粉碎。策手快、掣了太史慈背上的短戟、慈亦掣了策頭上的兜鍪。策把戟來刺慈、慈把兜鍪遮架
 ――第十五回 太史慈酣鬥小霸王 孫伯符大戰嚴白虎

 孫策太史慈は槍を捨てて殴り合い、戦袍はばらばらにちぎれ飛んだ。孫策が素早く太史慈の背中の短戟を奪えば太史慈孫策の兜を取った。孫策が戟で太史慈を突けば、太史慈は兜でそれを防ぐ

 ここでは両者が取っ組み合うように戦っており、その様子からすると短戟も近接戦闘で使われるもののように思われます。ただ、太史慈がこれを背中に装備していたってのがちょっと気になりますけど。


 芝整衣冠而入、行至宮門前、只見兩行武士、威風凜凜、各持鋼刀・大斧・長劍・短戟、直列至殿前。芝曉其意、並無懼色、昂然而行。
 ――第八十六回 難張溫秦宓逞天辯 破曹丕徐盛用火攻

 訒芝が衣冠を正して宮門まで来ると、そこには武士たちが威風凛々、それぞれ鋼刀・大斧・長剣・短戟を手にして殿前まで左右に並んでいた訒芝はその意を悟ったが、しかし懼れる風もなく、毅然として進んだ。

 こちらは、孫権が近衛兵だか儀仗兵だかで訒芝を脅したという場面です。訒芝を威圧しようという孫権の思惑により、兵が手にするのは鋼刀・大斧・長剣という物々しい武器ばかり。とすると、そこに並ぶ短戟もまたそれなりの得物でなくては迫力がないんじゃないでしょうか。
 ちなみに儀仗兵が短戟を持つというのは、正史でも見ました*2。儀仗兵が持つのですから、きっと見栄えのするものなはずです。手中に収まるような投擲武器とはちょっと違うかもしれません。


 『演義』で短戟が出てくる場面は大体こんなものです。意外と少ないんですね。
 ちょっと決め手に欠けるなあと思っていたところ、どうも短戟とは「手戟」のことらしい、という説明を百度百科で見つけました。
 なるほど、そういえば一個目に挙げた太史慈の短戟も、『三国志太史慈伝では「手戟」と記されてました。
 手戟ならば、『釈名』釈兵篇に「手戟、手所持摘之戟也」と、手に軽く持って使う戟だとはっきりあります。 
 『三国志』やその注にも用例がいくつかあって、董卓呂布の密通を見つけて投げつけたとか、劉備趙雲を謗った者に怒って投げたとか、孫策が厳輿に投げて殺したなどとあって、明確に投擲するものであることがわかります。
 というわけで、本当に短戟=手戟かはもっとちゃんと調べないとダメですけど、もしそうだとしたら短戟もまた投げて用いる武器と言えるかもしれません。


 が、それでも典韋は破格でした。

典韋、容貌魁桀、名冠三軍。其所持手戟長幾一尋。軍中為之語曰、帳下壯士有典君、手提雙戟八十斤。
 ――『太平御覽』巻四百九十六 人事部一百三十七 諺下 引『江表伝』

典韋は、容貌逞しく、名声は三軍に抜きんでていた。その手戟は長さ一尋近くもあった。軍中ではこのために、「帳下の壮士に典君あり、手に双戟八十斤を提ぐ」と語られた。

 一尋は八尺、三国時代の度量衡だとおよそ193cm
 明らかに片手で使うものじゃ、ましてや手中に十何本も握って投げつけるものじゃない!
 もちろんこれは『江表伝』の一節ですから、このイメージを『演義』が踏襲してるかどうかはわかりません。ただ典韋とは、典韋が扱う武器とはこうゆうものなのだそうです。
 だから、「典韋が投げてるからきっとそれは投げて使う武器」ってのは、1000年後の人が「DIOが投げて使っているから、きっとこのロードローラーという道具は投げて使う武器なのだ」と考えるようなものだったのかも。

 実際、毛宗崗はこう言ってます。
 「百歩箭不敵五歩戟、奇絶」と。
 百歩箭、つまり呂布が160m先の戟を弓で射たことよりも、典韋が8m先の敵に「短戟」を投げつけたことの方が凄まじい、ということです。

*1:典韋の鉄戟は、すでに『三国志』に「帳下壯士有典君、提一雙戟八十斤」とあります。後漢末の度量衡で換算しても、八十斤は18kg弱。化け物か。

*2:新唐書』巻二十三上 儀衞志上 衙に、「黄麾仗、左右廂各十二部、十二行。第一行、長戟、……。第二行、儀鍠、……。第三行、大矟、……。第四行、小戟、刀、楯、……。第五行、短戟、……。第六行、細射弓箭、……。第七行、小矟、……。第八行、金花朱縢格楯刀、……。第九行、戎、……。第十行、細射弓箭、……。第十一行、大鋋、……。第十二行、金花䖝縢格楯刀、……」とありました。

曹操の玄孫

 さっき新漢籍全文を使っててたまたま見つけたやつです。

曹侯村 武帝玄孫曹叔良所居、今相公橋左王宅園是也。
 ―『重修曹谿通志』卷一 山川形勢第一 古蹟

山初未有名、因魏武玄孫曹叔良避地居此、以姓名村。而水自東遶山、而西經村下、故稱曹溪。
 ―『重修曹谿通志』卷一 建制規模第二


 『曹谿通志』に曰く、むかしこの地に曹操の玄孫である曹叔良が遷り住んできたことから、これになんで村を「曹侯村」と名付けた。さらに東の山から西へ村に流れる川があったので、これを「曹溪」と名付けた、と。
 へー、、、
 曹叔良って誰なんでしょうね。というかどこなんでしょうこれ。

 
 ちょっと眺めてみた感じですと、『曹谿通志』とは、禅宗の高僧である大鑑禅師慧能が住まわった曹渓宝林寺に関する地理志みたいです。そして曹渓は現在の広東省韶関市曲江区(後漢荊州桂陽郡曲江県)にあるようです。⇒wikipedia「慧能」
 慧能とは、「中国禅宗(南宗)の第六祖」であり、「後の五家七宗全てがその一門から出た」ほどの中国禅宗史における重要人物なのだそうですが、仏教には疎いもので、、、

 ちなみに、『曹谿通志』にも「曹溪六祖大師、俗姓盧氏。其父行瑫范陽人」とあるように、慧能は范陽出身の盧氏だそうです。范陽の盧氏といえば、そう盧植。もしかしたら同族とかかも。あ、慧能は初唐の人物です。
 さらにちなみに、曹渓山に遷った慧能に寺社を提供した人物こそ、他ならぬ曹叔良だったって話もあるそうですよ。
 ちょっとなんか不思議な感じですね。