三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

子を棄てて甥を助ける

訒攸字伯道、平陽襄陵人也。
……永嘉末、沒于石勒。……石勒過泗水、攸乃斫壞車、以牛馬負妻子而逃。又遇賊、掠其牛馬、歩走、擔其兒及其弟子綏。度不能兩全、乃謂其妻曰、吾弟早亡、唯有一息。理不可絕、止應自棄我兒耳。幸而得存、我後當有子。妻泣而從之、乃棄之。其子朝棄而暮及、明日、攸繫之於樹而去。
……攸棄子之後、妻不復孕。過江、納妾甚寵之。訊其家屬、説是北人遭亂、憶父母姓名、乃攸之甥。攸素有紱行、聞之感恨、遂不復畜妾、卒以無嗣。時人義而哀之、為之語曰、天道無知、使訒伯道無兒。弟子綬、服攸喪三年。
 ――『晋書』巻九十 訒攸伝

訒攸は字を伯道といい、平陽襄陵の人である。
……西晋末、石勒(西晋を滅ぼした異民族)に囚われた。……石勒が泗水を渡ると、訒攸は車を捨てて、牛馬に妻子を乗せて逃走した。また賊に遇い、牛馬を奪われたので、自分の子と弟の子である訒綏を負ぶって歩いて逃れた。しかし二人とも連れるのは無理と考え、そこで妻に「私の弟は早くに亡くなり、ただ息子一人がいるだけだ。理は絶ってはならない、我が子を棄てて行こう。幸いに生き延びることができたら、子はまたできる」と言った。妻は泣いて従い、子供を棄てた。しかし棄てられた子がまた夜に追いついてきたので、次の日、訒攸はその子を木に縛って立ち去った。
……訒攸が子を棄てた後、妻は再び子を成すことはなかった。江東に逃れてから、訒攸は妾を置いてとても寵愛していた。しかしその家族を訊いてみると、なんと訒攸の姪にあたることが分かった。訒攸は普段から紱行があったが、これを知って後悔し、二度と妾を置かず、後継ぎがないまま亡くなった。世間の人は彼を義として哀れみ、「天道はご存じないのだろうか、訒伯道をして子を無からしめんことを」と言った。助けられた甥の訒綬は、訒攸のため(本来は九ヶ月でよいところを、父母に対して行うのと同じ)三年の喪に服した。


 死んだ兄弟の子を助けるために自分の子を見捨てる、という逸話は美談としてこの時期によく見かけるような気がします。
 たとえば三国志マニアとしては夏侯淵*1の例を思い出しますし、また探したら後漢*2西晋*3にも例がありました。
 古代中国において、後継を絶やすというのは大変な不孝だったといいます。死んだ人の霊を祀り慰撫することができるのは、その人と血縁のある子孫だけとされていたからです。つまり自分が後継ぎを遺せなかったら、自分の祖先たちに対する祭祀も絶えてしまうことになります。もちろん自分自身も死後祭祀を受けられないし。これらの逸話が単に「兄弟の子を助けた」のではなく、「"死んだ"兄弟の子を助けた」である理由です。

 でも訒攸の場合は純粋な美談と言っていいのか、なんとも微妙なオチがついてることが面白いです。
 知らずとは言え自分の姪を妾にするという不義を犯し、それがトラウマになって子をなせぬまま死んでしまうという、我が子を棄ててまで義を果たしたのにあんまりな結末。
 これは美談っていうか、むしろ子供を棄てたことへの因果応報を表現しているようにもちょっと思えます。
 それでもこの訒攸のエピソードは、ほぼ同じ形で『世説新語』徳行篇にも収められていますから、少なくとも六朝時代当時にあってこのような行動は高く評価されるものだったはずです。
 しかし、唐代に編纂された『晋書』の評価はちょっと違うようです。

史臣曰、……而攸棄子存姪、以義斷恩、若力所不能、自可割情忍痛、何至預加徽纆、絕其奔走者乎。斯豈慈父仁人之所用心也。卒以絕嗣、宜哉。勿謂天道無知、此乃有知矣。

史臣曰く、……しかし訒攸が子を棄てて甥を助けたことは、義を以て慈しみを断つことで、もしどうすることもできなかったら、当然情を割き痛みに堪えるべきで、どうして(子を)縛ったりして、逃げられないようにしたのだろうか(?)。これがどうして慈父仁人のすることであろうか。後継ぎないまま死んだ、よいではないか。天道は(訒伯道に子がないことを)ご存じないなどと言うな、(子を棄てたことを)ご存じだったからこそなのだ。

 自分の漢文読解力ではちょっと怪しいのですけど、たぶん『晋書』は訒攸の子棄てを激しくなじってるんじゃないでしょうか。
 こないだ、明清の研究をしてる先生が『世説新語』でこのエピソードを見てえらく不思議がってました。
 明清の家族倫理からすれば、亡弟とのためとは言え自分の継嗣が絶えるリスクを犯すなんてのはとんでもない不孝なんだそうです。
 その時はやっぱ六朝と明清じゃ感覚が結構違うんだなって思っただけでしたけど、『晋書』の論評を見るにもしかしたらこの辺に転換点があったのかもしれません。

*1:「魏略曰、時兗豫大亂、淵以饑乏、棄其幼子、而活亡弟孤女」(『三国志』巻九 夏侯淵伝裴注)

*2:「更始時天下亂、平弟仲為賊所殺。其後賊復忽然而至、平扶侍其母、奔走逃難。仲遺腹女始一歲、平抱仲女而弃其子。母欲還取之、平不聽曰、力不能兩活、仲不可以絕類。遂去不顧、與母俱匿野澤中」(『後漢書』列伝二十九 劉平伝)とあるように、劉平という人物が賊から逃れる際に、自分の子供を見捨てて亡き弟の娘を助けたとあります。

*3:「太和中、拜吳興太守、加秩中二千石。……餘杭婦人經年荒、賣其子以活夫之兄子。武康有兄弟二人、妻各有孕、弟遠行未反、遇荒歲、不能兩全、棄其子而活弟子。嚴並褒薦之」(『晋書』巻七十八 孔愉伝附孔嚴伝)とあり、呉興太守だった孔嚴が、自子を売って夫の兄の子を養った婦人や、弟の子を助けて自子を棄てた兄を褒賞したとあります。

曹操の娘と関羽の恋 【曹月娥】

 「淮劇」(揚州一帯の地方劇)に『関公辞曹』という出し物がある。その内容はまた少し変わっていて、曹操の娘曹月娥が関羽に恋する悲劇である。関羽曹操に助けられて一時曹操のもとに身を寄せたが、その恩を返したのち、別れを告げて許昌を離れる。それを知った曹月娥は、必死になって関羽に追いつき、「同行させて」とすがる。だが関羽は、奸臣の娘をつれていくわけにいかない。悲しんだ曹月娥は、関羽の前で自殺してしまう。関羽の恋……これは民間芸人の大胆な創造であった。関羽を"神"と見なしている人たちにとっては、とんでもないことだったろう。
 −丘振声著/村山孚訳『『三国志』縦横談』(新人物往来社、1990)


 こんな物語があったなんて、初めて知りました!
 父曹操のみならず、その娘までもが恋するとは、さすが関羽は英雄...


 ところで、丘振声先生はこの物語を「大胆な創造」、「関羽を神と見なしている人たちにとっては、とんでもないこと」と見ておられますけど、僕にはむしろ伝統的な関羽像に則った話に思えました。
 というのも、仙石知子先生によれば、関羽によって表現される「義」には実はさまざまな種類があるのですが、そのうちのひとつに「男女の義」というのがあるのだそうです*1
 これは要するに、男女の関係・女性の貞節とはかくあるべきだというのでして、仙石先生が具体例に挙げられているように『演義』の随所で見られます。その中でもひときわ有名なのが「秉燭達旦」の故事です。
 下邳から許都へ向かう途中、曹操関羽の君臣の義を乱そうと、あえて関羽と兄嫁たちを同じ部屋に泊らせる。しかし関羽は一晩中部屋の外に侍立して兄嫁たちの節を守り抜いた、ってやつです。
 この故事は元来『演義』にはありませんでしたが、毛宗崗はこの故事が史実でないと承知の上で敢えて挿入しました。如何にこれが関羽の「義」において重要なものであったかが窺えます。


 文芸上の関羽は好色とは無縁の人物ですから、一見すると女性との縁がほとんど描かれていないように思われがちですけど、むしろこの「男女の義」ゆえに割と接点が多い方じゃないかと思います。
 そうした時、僕が曹月娥の物語と似てるなって思い出したのが、「関公斬貂蝉」のエピソードです。
 『演義』が成立する前後から広く知られていた故事でして、もともとは「呂布滅亡後、曹操に囚われた貂蝉が保身のために関羽を籠絡しようするが、それを関羽が不義不貞と断じて、禍の元として斬り殺す」といったあらすじでした。
 しかし後世、『演義』の影響で貂蝉を忠節の人物と見なすようになると、貂蝉を単に断罪するだけだった「斬貂蝉」はだいぶ変化します。
 つまり貂蝉が純粋に関羽を慕って側に置くよう求めるようになったり、関羽貂蝉の不貞(漢朝のため董卓呂布に通じたこと)を義の成す上でのやむを得ないことと認めたり、です。さらに作品によっては明確に関羽貂蝉の恋を描くものも出てくるようになります。
 しかしそのような作品でも、関羽は最終的には義を通して貂蝉を拒みます。そして関羽に拒まれた貂蝉は、貞節を守るために自害(あるいは出家)するのです*2

 このように「斬貂蝉」は、関羽貂蝉の悲哀を描きつつも、義や貞節という「男女の義」を根底のテーマとする物語です。
 ここまで来ると、だいぶ曹月娥の物語と似てきませんか?
 曹月娥の物語も関羽曹操の元にいた時という舞台設定ですし、また関羽が義の上で曹月娥を拒むこと、そして拒まれた曹月娥が守節のために自ら果てるという基本テーマも「斬貂蝉」とそっくりです。ヒロインが共にやむにやまれぬ不義(貂蝉は国家のための不貞、曹月娥は奸臣の娘)を内包しているという点でも共通していますし、貂蝉の役割をそのまま上手く曹月娥に移し替えたって感じです。
 このように、一見して奇抜に見える曹操の娘と関羽の物語も、男女の悲哀を描くと同時に「男女の義」をも表現しているって言う点で、実は伝統的な関羽物語を踏襲するものなんじゃないか、と僕は思うのです。



 また付け加えれば、そもそも英雄が悪玉の娘と悲哀を演じるっていうプロット自体が古今に広く見られるものですよね。
 最近でも趙雲を主人公とした「三國之見龍卸甲」(邦題は「三国志」)ってゆう映画では、曹操の孫娘がヒロインになってたそうです。

*1:仙石先生による関羽の義に関する研究には、「毛宗崗本『三国志演義』における関羽の義」(『東方学』126、2013)、「毛宗崗本『三国志演義』における「関公秉燭達旦」について」(『三国志研究』9、2014)があります。

*2:関羽貂蝉に関しては以下の研究があります。
後藤裕也「「斬貂蝉」のものがたり 清代の説唱文学を中心に」(『関西大学中国文学会紀要』24、2003)
伊藤晋太郎「関羽貂蝉」(『日本中国学会報』56、2004)
大塚秀高『関羽貂蝉を斬るのはなぜか 弾唱小説と異端小説』(『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』、2008)
仙石知子『毛宗崗本『三国志演義』に描かれた女性の義』(『狩野直禎先生傘寿記念 三国志論集』、2008)

西晋の滅亡

 建興四(316)年、長安が異民族によって陥落すると、西晋の皇帝である愍帝もまた捕らえられます。
 愍帝は虜囚として屈辱を味わわされた挙げ句、翌年、弑逆されました。
そんな愍帝の最期について、『太平御覽』に引かれる逸文では、こう書かれます。


許肅別傳曰、肅為愍帝侍中。左衛將軍趜武將與肅齊心拒守、而外救已退。城遂陷沒、幽逼愍帝、送于平陽。肅復冒難、侍帝左右。劉載乃以帝為歸漢王。頃之、陰行鴆毒、帝因食心悶。欲見許侍中、肅馳詣賊、相見、帝已不復能語。肅曰、不審陛下尚識臣不。帝猶能執肅手流涕。肅歔欷登牀、帝遂殂於扶抱之中。晝夜號泣、哀感異類。載外欲明已不害、乃偽責諸臣、欲盡誅之。羣臣迸竄、唯肅獨曰、備位故臣、願乞得殯殮、然後就戮。載特聽許。事訖詣載曰、國亂不能匡、君亡不能死。舉目莫非愧恥。將何顔以存。所以忍辱。正以山陵未畢故耳。微情已敘、甘就刑戮。賊共義之曰、此晉之忠臣、宜加甄賞。載遂從議、故得全免。
 −『太平御覽』巻四一八

  • 許肅別伝に曰く、許肅は愍帝の侍中となった。左衛將軍の麴武は許肅と協力して守ろうとしたが、救援は訪れなかった。長安は陥落し、愍帝は捕らえられて平陽に送られた。許肅もまた危険を冒して、愍帝のそばに付き従った。劉聡西晋を滅ぼした前趙の皇帝)は、愍帝を帰漢王としたものの、やがて鴆毒で愍帝を殺害した。毒を盛られた愍帝は苦しみ、許肅を呼んだので、許肅が急ぎ駆けつけたが、愍帝はすでに話すこともできなくなっていた。「陛下、私がお分かりになられますか」と許肅が呼びかけると、愍帝は許肅の手を取って涙した。許肅はむせび泣き、愍帝はついに許肅の腕の中で崩じた。許肅は昼も夜も号哭した。一方、劉聡は自分が手を下したことを隠蔽しようと、偽って旧臣たちを責め、皆殺しにしようとした。群臣たちが逃げ惑う中、ただひとり許肅は劉聡に向かって「どうか、私を殺す前に、陛下のご遺体を納めさせてください」と言った。劉聡はこれを許した。事が終わると、許肅は劉聡のもとへゆき、「国の乱れを正すことができず、主君が亡くなって死ぬことができない。これを恥じずにいられようか、何の顔向けができようか。(賊の虜囚になるという)屈辱に堪えていたのは、陛下がまだおわしましたからだ。微情はもう敘べた、甘んじて刑に就こう」と言った。賊たちはこれを義とし、「晋の忠臣である、顕賞するべきだ」といった。劉聡はこれに従い、こうして許肅は免れることができた。


 しかしこの愍帝の悲劇、許肅の忠義はあまり知られてません。正史である『晉書』にないからです。
 『晉書』は、愍帝の最期をただぽつりとこう書きます。


十二月戊戌、帝遇弒、崩于平陽。時年十八。
 −『晉書』巻五 孝愍帝紀

三国志フェス2015と関帝廟ツアー

 早5周年を迎えようとしている「三国志フェス」が、今年も開催されます。

 http://3fes.sangokushi-forum.com/2015/

 てゆうかもうあと1週間後に迫ってきました!
 日時は1/31(土)10:30〜、会場は同じく横浜産業ホール「マリネリア」
 前回は展示場の半面だけを使っていたのに対し、今回は全面貸し切り
 なのでブーススペースはそのままに、更にイベントステージをもう1個増やして、黄河ステージと長江ステージのダブルステージ仕様になってます。
 そして協賛に青島ビール日本総代理店など、後援に中国大使館文化部が加わるなど、5回目にしてなお飛躍をやめない三国志フェス。
 お馴染み神速入場(黄河ステージで優先的に席取りができる)付の前売券はまだまだ絶賛発売中です
 初めての方も、あるいはもう何度もいらして下さっている方も。きっとまた楽しめるイベントになっているはずです。
 どうぞ、よろしくお願いします。



 で、全体的な宣伝はこんな感じで、個人的な宣伝をふたつさせてください。
 三国志フェスは、「三国志をあまり知らない人にも楽しんでもらいたい」、「三国志を楽しむきっかけになってもらいたい」をコンセプトにしていますが、一方で「三国志についてさらに知ってもらいたい」という学術的な方面の企画も並行して立ててます。

 その1つ、仙石知子先生の三国志講座「関羽の義」が長江ステージにて16:00〜行われます。
 前々からこのブログでも話題に出している仙石先生。
 今回は、『演義』において表現された関羽の「義」についてお話しされる予定です。『演義』がどのように関羽の「義」を表現する工夫をしているか、あるいは関羽の「義」とはそもそも何か、という内容になるかと思います。
 仙石先生は、『演義』を読むことができる数少ない研究者のおひとりですので、もちろん三国志フェス向けに楽しく分かりやすくお話されると思いますけど、相当の三国志マニアにもかなり新鮮な内容になるはずです。

 そしてもう1つ、関帝廟ツアーを今年もやります。
 しかも、公式ページをご覧の通り、僕がガイド役を仰せつかりました。
 前回の伊藤晋太郎先生のようなハイクラスなお話が自分にできるかとやや心もとなくもありますが、、、
 ただ関帝廟ツアーは、ちょっと皆で中華街でお昼しつつ関帝廟に参拝しよう、という参加者交流をコンセプトにする企画でもあります。せっかくだし他の三国志ファンと一緒にお昼食べようかな、くらいの気軽な感じで参加してもらえればって思ってます。
 参加費も、伊藤先生から僕になっ三国志フェス5周年記念!ということで、全部込々で2000円ですしね。だいぶお安くなりました。

 ただこのツアーは都合上、参加には事前予約が必須で1/26(月)が〆切になってます
 もしご興味ある方、どうぞよろしくお願いします。
 ガイド、がんばりますんで!
 http://3fes.sangokushi-forum.com/2015/tour.php

蔡邕の娘の子供の伯母

羊祜字叔子、泰山南城人也。……祜、蔡邕外孫、景獻皇后同産弟。
 ――『晋書』羊祜伝

景獻羊皇后諱徽瑜、泰山南城人。……后母陳留蔡氏、漢左中郎將邕之女也。
 ――『晋書』景獻羊皇后伝


 ご存知の通り、羊祜と羊皇后の母親は蔡邕の娘(済陽県君)なんですけど、ところでこんな逸文もあるんです。

三十國春秋曰、羊祜年十五而孤、事伯母蔡氏、以孝聞。蔡氏毎歎曰、羊叔子可謂能養今顔叔子也。其諸葛孔明之亞乎。
 ――『太平御覽』巻五一三

  • 三十国春秋に曰く、羊祜は十五歳にして父を失ったが、伯母である蔡氏に仕え、孝行で知られた。蔡氏はいつも歎息して、「叔子(羊祜のあざな)は古の顔回みたいだ。彼は諸葛孔明にも次ぐだろう」と言っていた。


 逸話自体も興味深いんですけど、ちょっと面白いと思ったのはこの話に蔡氏という羊祜の伯母が登場することです。

 ちょっと前から僕の周辺で、また「羊祜の母親は蔡文姫」って解釈が話題に上るようになってます。
 これ自体は皆が言っている通り文献史料に基づくものではなく、単なる誤読で説と呼べるものではないのですけど、文学的な創作としてはなかなか魅力的な見方かなって思います。
 ただもし文学的創作というならば、これは僕個人の好みなんですけれど、この伯母なる蔡氏こそが実は蔡文姫だった...とかの方が、おもしろくありませんか?
*1

*1:もちろん、この逸文はあんま信用できないですけどね。『晉書』羊祜伝には、羊祜が十二歳で父を亡くして叔父羊耽に仕えたとあります。また羊祜が顔回に比せられたというのも、羊祜伝や『世説新語』賞譽篇にあり、こちらは太原の郭奕が評したことになっています

全国関帝廟マップを作りたい

 秋くらいから、なんか関羽ブームが来てます。僕の中で。
 一時期、尚書省三國志部の教団さんと一緒に日本のあっちこっちの関帝廟を調べてまくるってことをやってました。
 日本で関帝を祀る所といえば、これまで哲舟さんがリストアップされていた全国関帝廟ガイドがありまして、とても詳細だったのできっとこれでほとんどなんだろうと思ってました。
 それが、改めて探してみると意外にポコポコ出てくる。とくに、お寺の中で関帝を祀ってるとこが結構多いんですね。普通、日本のお寺が中国の神格である関帝を祀ることはないんですけど、黄檗宗という禅寺は中国式の伽藍なものですから、関帝を置くとこが少なくないんです。

 そこで、全国の関帝廟をリストアップし、レビューしてきたいと思って、昨日こんなブログを立ててみました。
 また目次とかはしがきだけですけど、週末に横浜関帝廟行くんで、その辺から少しずつ増やしていこうと思います。
 どうぞよろしくお願いします。
  三国四方山噺「日本関帝廟志」
 

 ちなみに今のところ把握しているのはこんな所です。

 1.函館中華会館(北海道)
 2.東京媽祖廟(東京)
 3.立川関帝廟(東京)〔現存せず〕
 4.横浜関帝廟(神奈川)
 5.黄檗萬福寺(京都)
 6.宝林寺(静岡)
 7.大興寺(京都)
 8.清寿院(大阪)
 9.なんば関帝廟(大阪)
 10.観音寺奥之院(和歌山)
 11.神戸関帝廟(兵庫)
 12.三国志城博物館(山口)
 13.福岡関帝廟(福岡)
 14.千眼寺(福岡)
 15.興福寺(長崎)
 16.福済寺(長崎)〔現存せず〕
 17.崇福寺(長崎)
 18.聖福寺(長崎)
 19.唐人屋敷跡(長崎)
 20.至聖廟(沖縄)
  
 ちょうど20です。
 そして、教団さんがグーグルマップで一覧にされたものがこちら。
 https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=z-QrTLLn8FiE.k1ioHANHGsZY

 けっこうな数になりました。
 でもおそらく探せばまだまだ出てくるだろうと思っています。
 ですので、もしこれ以外にお心当たりのある関帝廟、あるいは関帝の像などがありましたら、ぜひとも教えていただけないでしょうか。

平成26年のまとめ

 今年はあんまブログ書けなかったっすねぇ、、、
 来年も、どうぞよろしくお願いします。
 『三国志研究』九号に、袴田郁一「『全相平話三國志』人物事典」を投稿しました。
 また三国志学会 第九回 京都大会(9/13)にて、「吉川英治三國志』における人物形象 −「三絶」を中心に」という研究発表をしました。
 という風にすっかり演義屋さんになってましたけど、ようやく自分本来の専攻となる「両晉における爵制の再編と展開」を『論叢 アジアの文化と思想』に投稿しました。掲載していただける予定です。

・吉川英治『三国志』(平成25年)(2/14)

 現在、没後70年が経って著作権が切れたことにより、新潮文庫から吉川英治の作品が次々と再刊されています。その嚆矢となったのが『三国志』と『宮本武蔵』でした。やはり吉川英治儲かる代表作といえばこの二作品なんだなあって再確認でした。

・京都大興寺、日本最古の関帝像か(2/22)
・日本最古、京都大興寺の関帝像について(9/20)

 京都に足利尊氏時代の関帝像があるらしい・・・って話を2月に書いたところ、じゃあ三国志オタクたちで実際に見に行ってみようか、ということになった9月。
 その真贋含めて、非常に興味深くて楽しい体験になりました。これ以降、めっちゃ関帝廟にハマってます。
 そして関帝廟といえば、来年1月31日(土)に横浜にて「三国志フェス2015」が開催されることはご存知の方も多いかと思います。
 その中の一企画として、今回もまた「横浜関帝廟ツアー」をやります!
 当日会場にいらっしゃる方、もし関羽についてもご興味があれば、ぜひいかがでしょうか?
 単に関帝廟を拝観するだけでなく、みんなでお昼ごはんを食べたりとお客さん交流型の企画になってますんで、お気軽にご参加ください。

・「現代三国志」の女性たち −三国志大戦3を中心に(4/1)

 現代の「三国志」って何なんだろう、ってここのところよく考えます。
 それは僕が、近代日本における「三国志」って何なんだってことを『吉川三国志』を通じて考えたことの延長にあります。近代日本の「三国志」受容は『吉川三国志』が決定づけた、とよく言われていますが、じゃあその『吉川三国志』が築いた「三国志」のカタチは、現代になってどう変化・展開したのだろうか、と思うのです。
 現代日本の「三国志」は、本当に種々交々、多様な形態が入り乱れています。そうゆう無数の作品がぜんぶひっくるめて「三国志」として受容されているところに、面白さとすごさがあるって思うのです。

・関平の息子 【関樾】(4/16)

 こうゆう関羽伝説ってのも清代にはあったんだなあと思いました。
 関平趙雲の娘との間に、実は遺児がいたという伝承。
 日本じゃあ関羽の子孫は蜀漢と共に滅亡した、って普通にイメージされてるかと思います。
 でも前に見た清代のある関羽文献が力説してたんですけど、いや関羽の子孫が滅んでるわけはないだって関羽は忠良義勇の人なのだから、って。
 日中での"子孫"の重みの違い、"関羽"の重みの違いを感じた一文でした。

・宮城谷昌光『三国志読本』への批判 「新しい三国志」について(6/17)

 僕の今までの駄文の中で、一番反響があったものでした。他人の悪口を書くと賛否どっちのリアクションもデカいですよね。
 自分ができる限りに真剣に批判したつもりですけど、頭が冷えた今ではやっぱり書きすぎたなって反省です。