三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

続・孫韶、出自の謎

昨日の記事の続きで孫韶です。
「三国与太噺」孫韶、出自の謎


三国演義』第七回の一文、
堅又過房兪氏一子,名韶,字公禮。
はこれまでの『演義』日本語訳においてどのように訳されてきたのか。自分が閲覧できた限りの日本語訳『三国演義』で調べてみました。ついでに『吉川三国志』、渡辺精一訳『反三国志演義』も参考に。


幸田露伴校『通俗三国志』東亜堂(1911)
「又兪氏の腹に一男あり。孫韶字は公礼といふ。」


●久保天随訳『新訳 演義三国志至誠堂書店(1911)
「又妾兪氏の腹に、一子名は韶、字は公礼といふがあり。」


小川環樹・金田純一郎訳『完訳 三国志岩波文庫(1988) ※初版は1953年
孫堅別にめとった第三夫人兪氏にも一人の男子があり、名は韶、あざなは公礼。」


●柴田天馬訳『定本 三国志』修道社(1956)
「また妾の兪氏にも名は韶、字を公礼という男があった


○立間祥介訳『三国志演義〈改訂新版〉』徳間文庫(2006) ※初版は1958年*1
「ほかに兪家の子を養子としていたが、名を韶、字を公礼といった。」


●村上知行訳『完訳 三国志光文社文庫(2004) ※初版は1968年*2
「堅はこのほかに第三夫人兪氏にできた男の子の韶(あざな公礼)をもやしなっていたのである」


渡辺精一訳『新訳 三国志講談社(2000)
「そのほかに、孫堅には兪家からもらった養子がいて、名は韶、字は公礼と言った。」


●井波律子訳『三国志演義ちくま文庫(2002)
「さらに孫堅の側室の兪氏に、名を韶、あざな公礼という息子がいた。」


ちなみにその他では
吉川英治三国志講談社文庫(1980) ※初版は1940年
「また、兪氏という寵妾にも、ひとりの子があった。孫韶、字は公礼である。」


○周大荒著・渡辺精一訳『反三国志講談社文庫(1994) ※初版は1991年
「孫韶は、孫権の父孫堅兪家からもらった養子で、孫権にとっては、つまり兄弟分というわけである。」




●孫韶実子派
『通俗』・天随訳・小川訳・天馬訳・村上訳・井波訳・吉川三国志
○孫韶養子派
立間訳・渡辺訳



●文山訳(1689)・実子
●天随訳(1911)・実子
●吉川訳(1939)・実子
●小川訳(1953)・実子
●天馬訳(1956)・実子
○立間訳(1958)・養子
●村上訳(1968)・実子
○渡辺訳(2000)・養子
●井波訳(2002)・実子








 かなり意外な結果になりました。とりあえず、『吉川』の典拠という前回からの疑問には「『通俗』に基づいたから」という答えが出そうですが、、、
 日本最初の『通俗三国志』以下、『三国演義』日本語訳史においてはその大半が孫韶実子派であり、わずかに立間先生と渡邉精一先生のみが養子とされています。多数決では圧倒的実子派なのですが、果たしていずれが正しいのでしょうか・・・?


 ところで、今回こういう形で『演義』日本語訳を初めて網羅的に調べてみたのですけど、そちらも結構意外でした。
 昭和以前の演義訳は『通俗』と久保訳しかなかったこと、1950年代に翻訳ラッシュがあったこと、それ以降はただ現代の二作しかないこと・・・。 

*1:『中国古典文学全集. 第8巻』平凡社

*2:河出書房