曹叡、字は元仲 【曹協】
これまでぼくは、曹叡とは正妻の子ながら、母が死を賜ったために不遇を受け、しかし最終的には後継ぎに収まる、といったイメージを思い込んでいました。
しかし今朝の記事で甄氏はあくまで妾のひとりに過ぎず、曹叡は嫡子ではなく庶長子である可能性を書きました。今度は、本当に曹叡は長子だったのか、ということについて考えました。
というのもそもそも彼の字は元"仲"じゃないですか。曹叡と言えば長男と言う先入観があったため、何故長男なのに次男っぽい字なのだろうかと前から不思議で、史料に残らず夭折した長兄でもいたのだろうかと思っていたのですが、普通に考えたらこの曹協こそが曹丕の長男だったのではないでしょうか?ってヤフー知恵袋が言ってた
贊哀王協、早薨す。太和五年、追封し諡して曰く經殤公。青龍二年、更に追て號諡を改む。三年、子殤王尋嗣ぐ。正始九年薨ず。子無し。國除く。(『三国志』贊哀王協伝)
早薨したという曹協の没年ですが、222年に曹蕤が封建されなかったことから遅くとも221年以前に亡くなっていたことは間違いありません*1 *2。また221年で曹叡は16歳であり、一方で曹協には遺児がいます。
これら三点を踏まえた上で、仮に曹協が曹叡の弟であると仮定しますと、曹協が"曹叡と同い年"でかつ"221年に亡くなる"と言う、ギリギリの可能性を合わせてもなお曹協は(数え)16才で子供を遺したことになります。実際には曹叡と曹協は1〜2歳離れているでしょうし、221年ちょうどに亡くなったとも限りません。そうなれば曹協が子供を作った年齢は更に低くなることになります*3。曹協を曹叡より年下に置くことは無理がありましょう。
曹協が曹丕の長子だとすれば曹叡は庶長子ですらなくなり、数いる曹丕の庶子のひとりに過ぎなくなります。長兄の死、皇后の不妊、父の早すぎる死という3つの"悪条件"が重ならなければ、本来は箸にも棒にもかからない程度の地位だったのです。
ちなみに曹協の実子曹尋の封建は235年であり、諸王の中で(明帝の子の斉王・秦王と並んで)最も遅い封建になります。おそらくは単に曹尋が幼かったからでしょうけど、邪推になりますが曹叡にとって曹尋とは、孫権にとっての孫紹、孫亮にとっても孫英、司馬昭にとっての司馬攸。ちょっと警戒すべき相手ではあったのかもしれませんね。