三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

関羽の郵便屋さん

「わたくしは姓を胡、名を華と申します。いま息子の胡班と申すのが、滎陽太守の王植殿のもとで従事をいたしておりますが、将軍がもしあのあたりをお通りになるようでしたら、息子に手紙をことづかっていただけないでしょうか?
 ―『三国志演義』第二十七回「美髯公千里走單騎 漢壽侯五關斬六將」


 この間、大東大の中国古小説研究会で、小川陽一先生の「明清時代の民間郵便事情」という講演を聞いてきました。
 ご存じ中国では古代より文書行政のシステムが非常に発達しており、公的な文書伝達のあり方についてはかなり研究が進められています。しかし小川先生によれば、公文書とは対照的に民間の手紙伝達事情はあまり記録に残らず、研究もほとんどないとのことです。
 古代で既に成熟していた公文書伝達に対して、民間の郵便システムは明清時代でも無いに等しい状態で、多くの場合は、個人個人がちょうど差出先へ行く人に委託するという原始的な方法に頼っていました。当然この方法ではとても不確実で、まず都合よく差出先へ行く人を見つけるのが困難であり、さらに委託した手紙が盗難・破棄されてしまう例がとても多かったそうです。
 特に手紙の盗難・破棄にはずいぶん悩まされていたようで、当時の善書に「委託された書簡を破棄・遅滞させないこと」が善行として述べられていたり、逆に地獄絵図に「托された手紙を破棄した罪」が描かれていたりと、重大な問題として捉えられていたとのことでした。

 そもそも明清小説や日用類書をご専門とする小川先生がかかる民間郵便事情に興味を抱かれた訳は、明清小説には当時の郵便事情を踏まえたストーリー、描写がとても多いからだそうです。
 そこで自分が思い出したのが、冒頭で引いた『三国志演義』の一場面でした。
 関羽曹操の元を辞して汝南に向かう際(いわゆる「五関に六将を斬る」)、隠士の胡華から滎陽の息子宛に「手紙」を托されます。関羽が滎陽に着くと、太守の王植は部下の胡班を使い、関羽暗殺を命じます。しかしこれこそ胡華の息子であり、胡班は関羽から父の手紙を受け取り、それを読むと、「危く忠良の人を殺すところだった」と感嘆して関羽の命を救ったのでした。

 ここで用いられた「胡華の手紙」は、物語の機能としては滎陽で関羽が命を救われる事の伏線になっています。ですがその背景には上記のような郵便事情があったのではと想像します。
 僕らが読むとただ手紙を托されただけにしか見えない場面でも、きっと当時の読者はその郵便経験を思い出し、同時に「関羽ならば」と思ったことでしょう。なにせ義の人関羽ほど「郵便屋さん」にうってつけの人はいないのですから。あるいは「書簡を破棄しない」という善行を踏まえれば、関羽はその善行ゆえに胡班に命を救われる運命に遭ったのだ、という教訓が込められているのかもしれません。
 そもそも、なぜ胡班は父からの手紙を読んで、関羽を「忠良の人」と言ったのでしょうか?父の手紙に関羽を讃えることでも書いてあったのか。いえ、もしかしたら父の手紙を届けたこと自体が「忠良」なのかもしれません。
 僕らがただ読み流してしまう「托された書簡」が、実は当時の読者には意味ある言葉であった可能性が高い、という意識は必要でありましょう。
 改めて、『三国志演義』が僕らとは時間も場所もまったく異なる所の文学作品なのだと思いました。




 そしてここから話を広げるならば、これこそが『吉川三国志』最大の欠点である、と僕は考えています。
 『三国志演義』を踏まえた作品と思われている『吉川三国志』ですが、その実は『通俗三国志』という「日本で生まれた三国志」の再話であり、故にここで述べたような中国古小説ならではの行間を読めていません。実際に『吉川三国志』ではこの場面、胡華が書いたのは「胡班宛の関羽の紹介状」でした。単なる「手紙」では、それが関羽の命を救う意味がわからなかったのでしょう。『通俗三国志』や『吉川三国志』が「日本の三国志」と言われる所以です。
 そしてそのような『吉川三国志』が日本の「三国志」受容の決定版となったことは、「三国志」と「中国」とが切り離されてしまう風潮に加担することになったのではと、今の僕は想像しているところです。