三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

関平の息子 【関樾】

 数か月前から、ずっと気になってた記事がありました。

また、清代の『江陵県志』によると、関平趙雲の娘趙氏を娶ったという。 関平と趙氏の子は関樾(木偏に越)という名で、江陵に住んでいたとある。(趙氏,關平之妻,清《江陵縣志》載關平娶鎭東将軍趙雲女趙氏,生子關樾,世居江陵)。
  ―wikipedia「関平」(2014.4.15閲覧)

 関平に息子がいて、しかも趙雲の娘との間の子だとな。 
 ご丁寧にその「関樾」の記事まであります。
 どうやら中文版wikipediaの维基百科などを参照して書いたみたいですが、ご覧のとおりあちらでも出典要求や削除議論が起こってる(關樾の項目は一度削除された?)くらいで、いかにも編集者のデタラメっぽい、胡散くさいネタです。
  维基百科「關平」
  维基百科「關樾」

 しかし、以前の諸葛質みたいな例もあるんで、もしかしたらと思っていたところ、たしかに見つかりました。文献上の記述が。
 出典は、清の光緒三年刻本の『續修江陵縣志』六十五巻、その巻五「壇廟」、関帝廟に関する記事の一文。自分が見たのは『中国地方志集成』(江蘇古籍出版社、2001)に収録される影印版です。
 

 世系
 關平娶鎮東将軍女趙氏、生子關樾。世居江陵。雍正十年七月奉
旨、以樾大宗嫡裔荊州府學貢生朝泰授五經博士、奉祀當陽關陵、並准世襲

 関平は鎮東将軍(趙雲)の娘を娶り、關樾を生んだ。代々江陵に住んだ。
 雍正十(1732)年七月、關樾の末裔である関朝泰を五經博士とし、当陽の関陵を祀らせ、それらの世襲を許した。
と、あります*1
 伝承の内容の真偽はともかくとして、確かに文献上に記録された俗説ではあるということです。
 さらに百度などで検索したところ、どうやら「關樾説話」は中国のネット上ではちょっと知られた存在ぽくて、
  ・8歳のときに荊州が陥落し、母に連れられて野に逃れた。その際に姓を「門」と改めた。
  ・蜀漢が滅び、龐会により関氏が根絶やしにされた際も、民間にいたので難を逃れた。
  ・西晋が呉を滅ぼしたため關樾も赦され、姓も関氏に戻した。
との話も見られました。なかなか話としては興味深いところであります。
 まあ、今後どっかゲームなどで採用されたらおもろいかもしれませんね。




  ↑うしろから3行目!


 それにしてもです。
 数年前からウィキも出典明示に厳しくなってきましたが、どうにも未だに編集する人たちにはそれが伝わってるようで伝わってないらしい。
 この関樾の場合もそうで、「清代の『江陵県志』によると」なんて言葉で典拠を示した気になってるのがちゃんちゃらおかしいです。
 典拠を出すというのは、その文章が自分の創作でないことを示すと同時に、その示された典拠を他者が再確認できるようにするための行為だと僕は思っています。たとえ典拠を示したとして、それが他者が確認できないような曖昧なものだったならば、読み手はそれが本当に引用なのか、それとも捏造なのかの判断ができないのです。
 これがまさしくそうで、「清代の『江陵県志』によると」と言いますけど、清代に編纂された「江陵県志」は複数ある上、「江陵県志」の何巻のどの箇所に書かれてるかも示されていない。だから典拠を探すのがえらい面倒でした。
 でも書名が挙げられてるだけこれはまだマシで、「俗説では」とか「民間伝承では」とかいう言葉で出典明示を逃れようとしてる不届き者もけっこう見かけます。
 こうゆうことだから、「無断引用」なんてゆう無知が世間にはびこるんですよ。ばーか。 


 

*1:関朝泰なる関羽の末裔が当陽県で関帝の祭祀を許されたとのことは、こちらで確認したとおり、『世宗憲皇帝實錄』や『清史稿』にも記録されていますので、おそらく事実でしょう。それが關樾、ひいては関平の末裔だということの真偽はアレですけど