三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

西晋の滅亡

 建興四(316)年、長安が異民族によって陥落すると、西晋の皇帝である愍帝もまた捕らえられます。
 愍帝は虜囚として屈辱を味わわされた挙げ句、翌年、弑逆されました。
そんな愍帝の最期について、『太平御覽』に引かれる逸文では、こう書かれます。


許肅別傳曰、肅為愍帝侍中。左衛將軍趜武將與肅齊心拒守、而外救已退。城遂陷沒、幽逼愍帝、送于平陽。肅復冒難、侍帝左右。劉載乃以帝為歸漢王。頃之、陰行鴆毒、帝因食心悶。欲見許侍中、肅馳詣賊、相見、帝已不復能語。肅曰、不審陛下尚識臣不。帝猶能執肅手流涕。肅歔欷登牀、帝遂殂於扶抱之中。晝夜號泣、哀感異類。載外欲明已不害、乃偽責諸臣、欲盡誅之。羣臣迸竄、唯肅獨曰、備位故臣、願乞得殯殮、然後就戮。載特聽許。事訖詣載曰、國亂不能匡、君亡不能死。舉目莫非愧恥。將何顔以存。所以忍辱。正以山陵未畢故耳。微情已敘、甘就刑戮。賊共義之曰、此晉之忠臣、宜加甄賞。載遂從議、故得全免。
 −『太平御覽』巻四一八

  • 許肅別伝に曰く、許肅は愍帝の侍中となった。左衛將軍の麴武は許肅と協力して守ろうとしたが、救援は訪れなかった。長安は陥落し、愍帝は捕らえられて平陽に送られた。許肅もまた危険を冒して、愍帝のそばに付き従った。劉聡西晋を滅ぼした前趙の皇帝)は、愍帝を帰漢王としたものの、やがて鴆毒で愍帝を殺害した。毒を盛られた愍帝は苦しみ、許肅を呼んだので、許肅が急ぎ駆けつけたが、愍帝はすでに話すこともできなくなっていた。「陛下、私がお分かりになられますか」と許肅が呼びかけると、愍帝は許肅の手を取って涙した。許肅はむせび泣き、愍帝はついに許肅の腕の中で崩じた。許肅は昼も夜も号哭した。一方、劉聡は自分が手を下したことを隠蔽しようと、偽って旧臣たちを責め、皆殺しにしようとした。群臣たちが逃げ惑う中、ただひとり許肅は劉聡に向かって「どうか、私を殺す前に、陛下のご遺体を納めさせてください」と言った。劉聡はこれを許した。事が終わると、許肅は劉聡のもとへゆき、「国の乱れを正すことができず、主君が亡くなって死ぬことができない。これを恥じずにいられようか、何の顔向けができようか。(賊の虜囚になるという)屈辱に堪えていたのは、陛下がまだおわしましたからだ。微情はもう敘べた、甘んじて刑に就こう」と言った。賊たちはこれを義とし、「晋の忠臣である、顕賞するべきだ」といった。劉聡はこれに従い、こうして許肅は免れることができた。


 しかしこの愍帝の悲劇、許肅の忠義はあまり知られてません。正史である『晉書』にないからです。
 『晉書』は、愍帝の最期をただぽつりとこう書きます。


十二月戊戌、帝遇弒、崩于平陽。時年十八。
 −『晉書』巻五 孝愍帝紀