三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

陳式陳寿父子説

 あるいは祖父とする話もありますが、とにかく三国志ファンには大変有名な説だと思います。ぼくも知らず知らずのうちに頭に入っていたんですけど、改めて考えるとこれは一体何を情報元にしていたのでしょうか。
 とりあえずウィキペディア「陳式」の項目を引きますね。

俗に『三国志』の著者・陳寿の父と言われているが、『晋書』「陳寿伝」等にはそのような記述はない。
なお、『晋書』「陳寿伝」によると、陳寿の父が馬謖の参軍で、馬謖の死刑に連座して髠刑(剃髪の刑で、宮刑の次に屈辱的とされた)に処されたという。『演義』ではこうした話を元に陳寿の父としての陳式が諸葛亮に処刑されるエピソードを創作したのであろう。

 ここでは『三国志演義』の創作とされていますが、現行流布本では削られてしまっています。立間先生の訳注に以下のようにあります。

弘治本(嘉靖本)では次のような注がはいっている。
のち陳式の子陳寿は晋の平陽侯となって『三国志』を編み、魏延の(洛陽をも取れたであろうという)言葉を根拠として、孔明が中原に入寇したと極言したのである

 また自分がちょっと見たところでは、葉逢春本と李卓吾本も評語としてこれに触れています。


【葉逢春本】

孔明皆召至問曰、誰失陷軍馬來。魏延曰、是陳成不聴令、潛地出谷以到失陥。陳成叫曰、某罪自有魏延亦会交行來。孔明怒曰、……。推出斬訖報来遂斬陳成。懸首寨門、以示衆將。後陳成孫陳寿三国志将魏為正統言孔明入寇中原(九巻 孔明四出祁山)

李卓吾本】

早知陳寿後来編史此時不殺陳式倒好。余聞一先生之論如此不知何如大家評一評看呵呵。(第一百回 総評)

 葉逢春本では陳寿は陳式*1の孫とされてますね。嘉靖本と葉逢春本は成立が近かったと思いますけど、情報にブレがあります。
 この他、陳式・陳寿に関連しそうな史料に結構あたってみましたけど、『三国志演義』以外にはこの説は見られませんでした。




 今回ふと陳式が気になったきっかけなんですけど、例の『反三国志』なんです。あの作中では珍しいことに、蜀将でありながら斬られ役を与えられたのが陳式なんですよ。

まず鼓角を鳴らし、夏侯淵が先頭をきって山を駆け下った。山のふもとの蜀陣を守るのは陳式である。陳式は急いで薙刀をとり、夏侯淵を迎え撃ったが、とうてい夏侯淵の敵ではない。十回と打ち合わずして、一刀のもとに斬り落とされた。

 この手の役回りは当然魏に、大変多い訳ですけど、蜀将で噛ませ犬にされたのはぼくの憶えている限り陳式ただ一人だったと思います。
 たしかに『演義』でも陳式は失敗を繰り返す凡将ですし、いわゆる定軍山の戦いで捕虜になっていますから、『反三国志』の場面でこのやられ役は確かにうってつけです。確か孔明が生前に処刑したのは、馬謖とこの陳式だけだったような。
 しかし『反三国志』では、現実で失策を犯した蜀将の多くが挽回をさしてもらっていまして、たとえば奇襲を成功させる魏延だとか、兵糧支援を万全に果たす李厳とかなんですが、やっぱりその中で陳式だけがこの扱いというのはちょっとわからない。あるいは例の陳寿との関係も影響しているのでは、といった次第でした。

*1:葉逢春本では陳成とされています。ちなみに『華陽国志』では陳戒と作られてました。