三国与太噺 season3

『三国志演義』や、吉川英治『三国志』や、日本の関帝廟なんかに興味があります。

2011-01-01から1年間の記事一覧

李卓吾本と毛宗崗本の区別

自分が普段『三国演義』の訳本・翻案本を読む時、それが「李卓吾批評本」依拠か「毛宗崗本」依拠か、を見分けるために基準としている16項目です。 明治〜昭和初期の三国志モノを読んでいますと、その本が、李卓吾本の邦訳にして元来人気第一だった『通俗三…

吉川三国志 【劉安】

彼の嫁スープがなぜ高く評価されているかについては、渡邉先生と仙石先生の共著『三国志の女性たち』が詳しく、面白いのでぜひ読んでみてください。 また劉安は『三国演義』の架空の人物ですのでこの行為も宋明時代の価値観に基づいていると思われますが、た…

吉川三国志、書誌のまとめ

◆初出 「中外商業新報」(現・日本経済新聞)夕刊一面連載*1 昭和14年(1939)8月26日〜昭和18年(1943)9月5日*2 (連載予告が14年8月24日の朝刊夕刊両方に掲載) ◆所収*3 ・初収版*4 大日本雄弁会講談社、全14巻(昭和15年〜21年) ・六興八巻版…

吉川三国志、修正された序文

昨日に引き続いています。 「三国与太噺」‐吉川三国志、新連載の予告記事 吉川英治『三国志』はそのアタマに、吉川先生による「序」を収録しています。これはそもそも昭和15年、最初の単行本化に際して書かれたものであり、以降『三国志』が再版される度に…

吉川三国志、新連載の予告記事

1939年8月26日より中外商業新報などで連載を始めた吉川英治『三国志』ですが、それに先だって24日の夕刊に新連載の予告記事が出されていました。 作者が、新聞社が、この新連載をどのように考えていたかアピールしようとしていたか端的に窺えて、な…

吉川英治『三国志』(4) 〜呂布の死

北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、 などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。 呂布の乱なのに感想があまり・・・ない、、 ●手製の玉璽(講談社文庫版(1980)第2巻p237) けれ…

長沙の劉氏、劉封

劉封はもと羅侯の寇氏の子にして、長沙劉氏の甥なり。 先主荊州に至り、未だ継嗣あらざるを以て封を養い子と為す。 自分これまで劉封の出生を「羅侯の寇氏の子」「異姓養子」という印象を強く持ちすぎて、長沙劉氏の甥であるという設定を完全に見逃していま…

吉川三国志 【貂蝉】

元々『演義』以前からの民間説話を出身とする貂蝉。なので小説や演劇によってその結末は様々なのですが、吉川三国志のような連環の計と共に自害するパターンはおそらく初めてなのではと思われます。*1。 原典『三国演義』では貂蝉の結末は描かれないまま、呂…

吉川英治『三国志』(3-b) 〜董卓の乱

北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、 などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。 ●曹操の家系 王允もいったとおり、彼の家柄は、元来名門であって、高祖覇業を立てて以来の――…

吉川英治『三国志』(3-a) 〜董卓の乱

北方、宮城谷、蒼天航路、無双、、、 などなど各ジャンル様々な"三国志入門"が躍動する現代にあってもなお色褪せない吉川三国志を改めて読み返してみた感想です。 ●定州の劉恢 『演義』でちょこっと登場する架空の人物ですが、安喜県尉を棄てた劉備たちを保…

曹魏皇族の郷公

諸侯王の庶子の封建というのは、たぶん漢武帝の推恩令に始まると思います。しかしこれは単に次男坊に食い扶持を恵もうというものではなく、その真意は広大な諸侯王の領土を削ることにありました。これが後漢になり諸侯王の権力が大幅に削がれますと、庶子封…

漢末諸劉氏の出自

いつもよくわからなくなっちゃうのでちょっとまとめです。 他にお仲間がいれば、教えてください。 ◆劉岱・劉繇 高祖の子、齊悼恵王劉肥の後裔。*1 ◆劉表 景帝の子、魯恭王劉餘の後裔。*2 ◆劉焉 景帝の子、魯恭王劉餘の後裔。*3 ◇劉虞 光武帝の子、東海恭王劉…

伊藤晋太郎「関羽と貂蝉」

伊藤晋太郎先生の論文「関羽と貂蝉」(『日本中国学会報』、2004)を読んだ感想ノートをそのまま記事にしました。 伊藤先生は言わずと知れた関羽をご専門にされている先生ですが、個人的にはこの論文では関羽よりむしろ貂蝉の人物像の変化についての方が興味深…

蜀郡趙氏B-3 【趙典③】

前記事で見た通り、『後漢書』趙典伝は、彼の最期を「(国師に推されたが)たまたま病死した。諡して献侯」と書いています。 しかし同伝李賢注に引かれる謝承『後漢書』が、「竇武、王暢、陳蕃らと宦官誅滅を図るも、失敗して獄に下され、自殺した」と真逆の…

蜀郡趙氏B-1 【趙典①】

「趙典は字を仲経、蜀郡成都の人。父の趙戒は太尉となり、桓帝擁立によって廚亭侯に封じられた。」*1 清流人士の筆頭グループ、八俊の第七位、趙典の列伝はこの様な書き出しで始まります。 范曄が趙戒を「糞土の如し」と書いたことは先日の通りであり、それ…

蜀郡趙氏B-2 【趙典②】

桓帝の初期、親梁冀の権道派としてデビューした趙典でしたが、父と梁冀が世を去ると、次第に清流派官僚の片鱗を見せ始めます。 特にその桓帝代後半に出された、皇帝の恩寵によって諸侯となった者を非難する上奏が印象的です。表向きは功無き者が諸侯になると…

蜀郡趙氏A 【趙戒】

字は子伯。父は趙定。*1 謝承『後漢書』によれば趙戒は「経学に詳しく」、「荊州刺史となり梁商の弟である南陽太守を弾劾し」、「各地の太守として不法な豪族と宦官縁故の者を免職する」など剛腕清廉の官僚として描かれています*2。 ですが『後漢書』本紀に…

蜀郡趙氏C 【趙謙】

字を彦信。八俊趙典の兄子にして、十五年司徒趙温の実兄であります。 弟と相次いで三公に登るなど、後漢ではこれ含め3例しかないです。 しかし趙謙の名前が出る最初は、霊帝中平元年、汝南太守として黄巾賊に敗北するという、ちょっと恥ずかしいものでした*…

蜀郡趙氏D-1 【趙温①】

字を子柔。益州蜀郡成都県の人。 益州には豪族趙氏が広く生息していたようなのですが、特にこの蜀郡趙氏は趙戒・趙典・趙謙・そして趙温という当代きっての官僚・士大夫を輩出した極め付きの大姓です。 その中でも趙温は三公を歴任―それも十数年に渡って、と…

蜀郡趙氏D-2 【趙温②】

趙温が司徒に就任した翌年、李傕と郭艴の抗争が本格化し、三公以下重臣はその火消しに奔走することになります。趙温もまた傍観していなかったようです。 それは李傕が献帝拉致を謀った時、趙温はきわめて強い言葉でそれを諫めます。それを渡邉先生の翻訳で引…

村上春樹『風の歌を聴け』 段落とあらすじ

-1・2- 「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終る。」 -3- 1969? 鼠とジェイズ・バーにて。金持ちについて。*1 -4- 1967 鼠との出会い。 「僕が鼠と初めて出会ったのは3年前の春のことだった。それ…

せめぎ合う十三歳 【陸鬱生】

張白の妻は陸績の娘である。鬱林で生まれたので名を"鬱生"という。 張温の弟である張白に嫁いだが、張温が罪を被ったため張白らは配流された。鬱生は離婚され、また競って婚姻の申し出があったものの、決して再婚しようとはせず、張温の姉妹三人を大切にした…

長楽郡公主 【劉曼】

この劉曼という女性が三国志大戦に追加された時に、一体どれほどのユーザーが彼女のことを知っていたでしょうか。セガもすごい重箱を突っついたものです。それとも既に何かの創作に登場していたのでしょうか? 魏書曰:十二月丙寅,賜山陽公夫人湯沐邑,公女…

司徒荀爽

『三国演義』第六回にて、董卓が提案した遷都の計画を三公が揃って反対する場面がありますが、何故かそこで荀爽の官職が司徒となっているのです。直前に同じく反対意見を述べた楊彪も司徒と記されていますので、わずか数行のうちに司徒が二人も並ぶ始末、明…

関羽の娘で村おこし 【関銀屏】

関羽の三番目の娘。父親ゆずりの武勇を持ち、女性であるにもかかわらず、諸葛孔明の南蛮討伐に参加したと言われている豪傑。孫権の息子との縁談話が持ち上がったが、父関羽が「犬の子に虎の子はやれぬ!」と断り、蜀と呉の関係が悪化した。 「父上譲りのこの…

貞節と義理 【夏侯令女】

うちのブログ、「三国志 女性」という検索ワードからいらっしゃる方が他のダントツで多いんです。以前に仙石先生の著書の感想を書いたためだと思いますが、世間ではやはりそういう需要が多いというか・・・そうですよね、ぼくも孫大虎大好きだし・・・董白は…

司馬順の抗議

順字子思,初封習陽亭侯。及武帝受禪,順歎曰:「事乖唐虞,而假為禪名!」遂悲泣。由是廢黜,徙武威姑臧縣。雖受罪流放,守意不移而卒。*1 司馬順は司馬八達の七番目、司馬通の次男にあたります。司馬昭の従弟、司馬炎の族父(従兄弟違い)ですね。司馬炎によ…

曹魏皇族の侯

曹魏の皇族は原則として王・公に封じられ、逆に曹魏の王・公も皇族に限られていたようです*1。 ですが一時的に侯に封じられていた皇族がわずかにおりまして、この侯の爵位をどう見るかが目下問題になっております。臣下が与えられていた県侯などと同様の「列…

曹魏皇族の公

昨日に引き続きまして、今日は公爵です。 諸侯を公に封建することは光武帝の初期にも行われていましたが本当にごく最初期のみで、曹魏のように王と公とで兄弟を差別することは後漢でもこの後の西晋でも見られない処遇です。 (1)曹琬・・・長子公(222〜253) …

曹魏皇族の県王

曹魏の諸侯は、221年に公であったこと、224年〜231年に県王であったことを除けば、原則として一律で郡王に封建されています。ですが一部ではその原則から外されて県王・公・侯などに留められた者がいました。 このように爵位によって諸侯の間に格差…